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人は生まれてくる場所を選べない。
幼い頃、それはあまりにも理不尽で不公平だと思った。
自分の意思でこの家に生まれてきたんじゃないと、由緒だの古いしきたりを重んじる家風に反発して家を飛び出した。自分の生き方は自分で決めるのだと。
それでも、今ではほとんど連絡も取っていない家だけれど、そのつながりが途切れることは決してない。
反発できるという事さえも、今の俺には甘えに思えた。
当たり前に『家族』という不自由と安心な場所を与えられた自分と、帰るべき場所でさえも与えられなかった彼女。
彼女が悲痛に求める自由でさえ、闇の中にある。
その事実が、息苦しい程に、痛い。
あまりの痛みに立ち尽くす俺たちの前で、ゼロスが優雅にお茶を飲んだ。目の前に出されているそれは、一口も手をつけられないままにすでに冷め切ってしまっている。
「やはり温かいうちに飲まないと香りが飛んでしまいますねぇ。皆さんの分も煎れ直してきましょうか」
立ち上がりかけたゼロスを視線で止め、張り付いた舌を湿らす為に飲む気はなかった冷めたお茶を口の中に流し込む。
ゼロスが知っているリナの秘密はこれだけじゃない。
「もう1つ・・・リナを利用しようとしている組織の事は知っているか?」
「それは秘密です♪」
心底楽しげなゼロスのその口調に、ブチッとギリギリまで必死に押さえ込んでいた何かが切れる。
「貴様・・っ」
「ダメですっ、ガウリイさん!」
ギシッとソファが嫌な音を立て、瞬時に立ち上がりゼロスに掴み掛かろうとした俺の腕をアメリアが咄嗟に、でも力一杯押さえ込んだ。
「気持ちはわかりますが今はダメですっ!」
「落ちつけっ、ガウリイ!情報が先だ。殴るなら後でもできる!」
ゼルガディスも俺を必死で止める。その制止の声には焦りがあった。後輩だったゼルには過去に何度か暴走した時の俺を知っているから。
「・・・・ゼルガディスさんもアメリアさんも、ガウリイさんを止めるのか唆してるのかわからないんですけど・・・・」
僕、これでも一応ちゃんと税金を納めてる一般市民なんですから・・・などとしゃあしゃあとほざくゼロスに、3人の鋭い視線が突き刺す。
落ち着かなきゃいけないなんて事はわかってる。だからこそさっきまで必死で自分の感情を飲み込んで殺してきた。
だが、もう余裕なんてものはない。先程までの強がりの仮面さえも音を立てて崩れていく。同時に膨れ上がってくる殺気。
ここでゼロスを殴りつけても、事態は何も変わらないだろう。むしろ、断片的な情報だけを俺たちに渡したことで、リナを余計に追い詰めることになりかねない。
どちらに滑っても深い傷を作り出す、諸刃の剣の上を素足で歩いているようなものだ。
だが、今この瞬間にもこの街のどこかで。リナが声を殺して絶望と戦っているのを痛い程感じているのに、落ち着くことなんてできるはずがない。
「・・・・やだなぁ、ガウリイさん。そんな殺気を振りまかなくてもいいじゃないですか。冗談です、少しだけお教えしますよ。僕が予想した範囲内ですけれどね」
けれど、ゼロスはむしろ酷く楽しそうに薄く笑った。
暗い喜びを宿している、闇を纏った占い師。
その口から語られるのは、死神の宣告に等しい。
「正式名称とかは知りません。そもそもそういった機関がこの国に存在することすら極秘ですからね。ありながらにしてなきもの・・・・リナさんと同じです」
「・・・・国の機関か?」
「そうですよ。特殊工作員や諜報員の養成機関・・・いわば『スパイ生産所』ってやつです」
「はぁっ!?」
いきなり出てきたふざけた単語に、声を上げたのはゼルとアメリアだった。
「ここまできてふざけないで下さい!海外映画やドラマじゃあるまいし!嘘つきは泥棒の始まりですよ!」
「 おや?アメリアさんは信じませんか?見方次第で『悪の秘密結社』や『正義の味方の指令室』と意味合いじゃ変わりませんよ」
「っ・・・い、今は特撮ヒーローの話をしてる場合じゃないんですっ。現実の状況を聞いているんですよっ!?」
ゼロスにいい募るアメリアに対して、ゼルはしばらく考え込んだ後苦々しい声を絞り出した。
「・・・・・・外交官の中にはそういうようなことを専門にしている奴がいるって噂はあるが・・・・」
「そうなんですかっ!?」
アメリアとゼルのやり取りを笑顔の仮面で見つめながら、ゼロスはジッと俺を見ている。
身に覚えはあるでしょう?―――と。
リナと・・・いや『ルビー・ムーン』と渡り合った何度かの事件が脳裏に浮かぶ。
ゼルが『夢でも見ていた』と言い切るくらい、一般常識では信じられない行動をしてきたリナ。
それは、確かに『サイコメトリ』と呼ばれる超能力を使ったものもあったが、でもそれだけじゃない。
初めて出会った夜の公園での追跡劇は、巨木の上から極細のワイヤーを瞬間的に引っかけて飛び下りた。
植木などは障害物にならないほど俊敏に走り回った。
ビルの屋上での鬼ごっこでは、あり得ないと誰もが予想し得なかったルートで屋上に現れ、その場を離れる為にビルの屋上からためらいもなく飛び下り、その途中で背中に収納していたパラグライダーを開いて夜の気紛れなビル風に乗って消えた。
橋の欄干に危な気なく飛び乗った身軽さ。
無謀としか思えない行動の中には、特殊な器具を使いこなす確かな技術を持ち常に冷静な計画を立てている・・・立てられてしまう、その運動能力と強気な性格が 『ルビー・ムーン』としての自信に繋がっている。
予告状まで出し何度も警察を相手にしながらも、一度も捕まえる事はおろかその正体すら掴ませなかった、完璧な行動計画と実行力。
「・・・・あいつはパソコンは使えないって言ってたが・・・?」
「必要無いでしょう?リナさんの特殊能力を使えば危険を犯さずにどんな情報も盗めますしね。痕跡1つ残さずに」
否定出来そうな情報はあっさりと切り捨てられ、更に残酷な事実をゼロスは突き付ける。
「まだ身体は未熟とは言え、ちょうどいい事にリナさんは『女』ですし。使い勝手はいいでしょうねぇ」
「・・・・・・っ」
すでに手のひらの痛みは麻痺している。
ゼロスの言葉の意味はわかりたくなくともわかってしまう。
古今東西、女が情報を盗むのに使うもっとも有効な手段は色仕掛け。
子供扱いしてからからえるほど華奢で童顔なリナだが、時にこちらが狼狽えるほどの色気を感じる事があるのだ。
けれどリナが自分の意思で身体に触れさせるとは考えられない。
だが・・・・・
「『子供』として持て余していたリナさんを、『素材』として引き受けた。御存じのように『スパイ』としての能力は高いですね。ただ、本人はそれを嫌がって施設からの脱走を繰り返していましたが・・・まぁ、何か問題を起こしてももともといない存在ですから『消去』してしまえばいいだけの事ですし」
「冗談じゃありません!そんな、人をなんだと思ってるんですか!」
アメリアが思わず上げた怒りの声に、ゼロスは幼い子供に言い聞かすようにゆっくりと言葉を紡ぎ出す。
「使い捨ての駒ですよ」
「・・・・・・・!!」
あっさりと告げられた、あまりの理不尽さと残酷さに絶句してよろめきかけたアメリアの背中を、さすがに顔色をなくし強ばった表情のゼルガディスが支えた。
ただの一個人でさえ、いくつもの顔を持っている。
それが一国家となれば、数えるのも馬鹿らしい程の面を見せているだろう。表には決して現れてはならない裏の顔も。
映画や小説よりも、現実は奇妙で想像を超える。
だからこそ今までの話を認めたくない。ゼロスの言葉の全てを信じるのは危険で間抜けなことだ。
けれど、否定しきれない。
リナを真剣に追い掛けて勝負したことがあるからこそ、認めたくはないが、その話に真実味がある。
リナを搦めとっている、闇。
「『現実は小説よりも奇なり』ですよ」
ゼロスの言葉が、発する言葉を失った俺たちの中に響き渡る。その言葉に奇妙に納得してしまう自分に。無性に、笑い出したい衝動に駆られた。
「・・・・・・リナと知り合ったのは?」
「この街で行き倒れていたのをたまたま拾ったんです。何となく面白そうでしたからね」
「面白そうだと・・・?」
「そんなに睨まないで下さいよガウリイさん。ああ、御心配なく。別にリナさんには手を出してませんから。単なる気紛れですよ。リナさんにしたって、ここに居着くわけじゃありませんでしたし・・・・巣の1つとでも思ってるんじゃないですか?」
―――もともと家などない『野良猫』ですからね。
逃げ出しても行き場がなく、華やかで賑やかな街の裏で彷徨っていただろうリナの姿が脳裏に広がる。
その瞳には何が写っていただろう。
あの日、ガードレールに座って濁った空を見上げていたように。必死に見えない出口を探していたのだろうか。
何者にも捕われず、しなやかな身体を翻して夜の街を駆け巡る、赤い瞳の猫のような少女。
絶望を隠しながらも強気に真直ぐに生きている、山猫のような。
「・・・・・・リナは『野良猫』じゃない」
「では何です?」
わざとらしく肩を竦めておどけてみせるゼロスを真直ぐ見据える。
先程まで渦巻いていた殺気のようなやり場のない怒りは、リナのあの好戦的な瞳を思い出した今は、ない。
「あいつは『野良猫』なんかじゃない。言うなれば『野生の猫』だ」
都会というジャングルに飲み込まれずに誇りを持って生きている、野生の女。
馴れ合って楽な道に流されることを拒んで、自分の思う険しい道をあえて進んでいく。自分の誇りだけは決して手放す事なく、誰にも懐かず、自分の力だけで生きていこうとする孤高な姿は痛々しいと同時に、すでに流された自分にとって憧れと羨望の念を抱かせる。
そういうリナだからこそ、惹かれた。
『刑事』と『泥棒』とか、そんなものはすでに関係なく。
『俺』が『リナ』を捕まえる。
その思いは今も変わらず・・・いや、更に強くなっている。
揺らぎながらも一度は確かに伸ばされた小さな手を、俺は掴みきれなかった。そんな後悔は2度とするもんか!
ここでゼロスに会う前に、覚悟は決めている。
リナが自分の求めている未来に向かって必死に生きているのなら、俺はそんなリナを守りたい。
もう決して1人で泣かさないように、すぐ側で支えたい。
一緒に、笑って生きていきたい。
それが、今の俺を突き動かす全ての望みだから。
「全く物好きですねぇ・・・お好きにどうぞ」
ねっとりと絡み付いてくる闇を振り切るかのように背を向けて出口に向かって歩き出した俺の背中に、笑みを含んだ声が漂って・・・消えた。
◇◇◇◇◇
どこまでが本当で、どこまでが嘘なのか。
何が現実で、何が妄想なのか。
全てが入り乱れていてわからない。
わかっているのは、この街にリナがいて。
俺は何が何でも、どんな手段を使ってもリナを捕まえる。
ただ、それだけ。
「・・・どうする気だ、ガウリイ」
ゼロスの店を出てからただ無言で歩いてきたゼルが、駅が見えたところで重い口を開いた。
すでに終電の時間が過ぎて結構な時間が立つが、きらびやかなネオンの光も道を行き交う人の群れも、多少数は減ったとは言え消えてはいない。
迷路を彷徨う迷子たちを家まで送るタクシーが、赤いランプをつけて路上に列をなしていた。
与えられた情報の多さは、あまりの衝撃と重さを伴っている。冷静に情報を判断するには感情が落ち着くまで無理だろう。
元気印のアメリアでさえも口を開く事はおろか表情すら無くしている。
今、2人の内面はぐるぐると色々な事が渦を巻いて掻き回されているのだろう。
リナを監視しているのが本当に『国家組織』というものなのならば、『警察』という組織に属している俺たちが手を出す事は絶対に出来ない。
だが・・・・――――
懐に手を入れて内ポケットから取り出したものを無言でゼルガディスに差し出す。
『辞表』と表書きされた白い封筒と小さな黒い手帳を。
「ガウリイ!?」
「そんなっ、ガウリイさん。辞めてどうするつもりなんです!?」
左右から同時にガッと強く腕を掴まれ、驚きと非難の厳しい声が俺を引き止めようとした。けれど。
「もう『刑事』ではリナを捕まえる事は出来ないからな。ゼロスの話がどこまで信じられるかわからないが、それでも『警察』に属する者としてはもう身動き出来ないだろ?」
ゼロスの話を聞く前から既に辞める事は決めていたのだ。
リナを撃ったチンピラを脅して書かせた牙竜組の見取り図が内ポケットの中でカサリと微かな音をたてる。捜査令状などあるはずもなく、ただリナの手がかりとリナを傷つけたその仕返しを兼ねて乗り込もうとしている自分はすでに『刑事』ではあり得ない。
ズシリと重い拳銃もリナを捕らえる為の手錠も。
今の俺にとっては、俺自身の身柄を確保しリナへの道を阻む枷でしかない。
拳銃と手錠もゼルガディスの手に押し付け、刑事である自分を捨て、一般人に・・・ただの男になる。
しかし、その手をゼルは押し退けた。
俺に一歩も引かない鋭く厳しい眼光がぶつかりあう。
「丸腰のままたった1人で何をする気だ?さっきも言ったはずだぞ。巻き込むなら最初から巻き込めと」
「そうですよ!どんなに状況が困難であっても、あたしたちは仲間じゃないですか。それに、今さら手を引けるわけありません。もう、ガウリイさんだけの問題じゃないんですからね!?」
正義の名の元に揺るぎない強い光をたたえた大きな瞳がジッと見つめてくる。
この世界が純粋に『善』と『悪』に分けられるなんてさすがのアメリアだって思ってはいない。
人間こそどの動物よりも弱肉強食という生態系に雁字搦めに捕われ、本能的ともとれる程、自らを正当化し強者としようとし、そのように生きようとする。
その衝動と行動は生きていく上で不可欠なものであると同時に、人は群れて暮らす習性上、平穏と調和を同時に望みもするのだ。
そのバランスから外れた者が問題行動を引き起こし、『悪』とみなされてしまう。
『正義』と『悪』は表裏一体。
警察と言う機関に在籍していれば、嫌でも思い知らされていく。
けれど、リナの件に関しては、『正義』というものがどこにもないのだ。
全てが、どこか間違っていて、いつ壊れてもおかしくない狂った歯車の上にかろうじてリナが立っている・・・そんな状態。
リナを捕まえて保護して・・・・そしてどうする?
世間の常識から外れた存在を救うのに、『常識』という『決められたルール』は1つも役に立たない。
だからこそ、俺はアメリアの目を真直ぐに見返した。
「巻き込んでおいて今さらこういうのは卑怯だと俺も思う・・・・でも、アメリアを犯罪者にさせるわけにはいかない。ゼルもな」
「なっ!?」
「っ!?」
アメリアは大きな目を見開き絶句し、ゼルは一瞬アメリアを見ると同時に俺の行動を理解したのだろう。何匹もの苦虫を一気に噛み下したような表情を浮かべ、グシャッと手にした辞表と手帳を握りつぶした。
自分が傷つき汚れるのはかまわない。
けれど、自分が大切だと思い守りたいと願う者に、同じように傷つかせ汚れさせたいと望む男はいない。
リナとは違う。
けれどアメリアは俺の相棒で仲間だ。
まだ純粋に正義を信じその信念のまま真直ぐ前を見つめて行動出来る、既に世の中に多少の妥協を仕方ないと許してしまう俺たちにとって、そのままでいて欲しいと願う、そんな大切な少女を俺の我が儘で歪めるわけにはいかない。
それにゼルガディス。
俺の上司であり後輩であり、親友でもある。
『ルビー・ムーン』に対する事件の数々はこれまでも随分無茶をさせてきた。矢面に立って俺の尻拭いもやらせてしまっている。まさに板挟みの中間管理職だ。
俺が刑事のままリナを助ける為に手段を選ばず行動を起こせば、ゼルもただでは済まない。俺を『ルビー・ムーン』の部署にスカウトして配属させたのはゼルなのだから、その責任を問われ、最悪辞職に追い込まれることは必至だろう。
リナが取り返し屋の『ルビー・ムーン』として盗みを働いてきた、その莫大な成功報酬。
それは、リナを引き取った施設から逃げ出し、自分の力で生きていく為の最低限の権利を保証する偽造の身分証明書を買う為。
事実だけを見れば、どこから誰が見てもリナは『犯罪者』だ。真実を告げてもその証拠となるものは何もない。
『ルビー・ムーン』を捕まえる。
それは同時に『リナ』から自由になる為の最後の望みを奪う事になるのだ。それはリナを殺す事と変わりない。
リナを生かす為に助ける。
それには、法を犯し『犯罪者』となるしかない。
綺麗事を言っていられる場合じゃないのだから、もう覚悟は出来ている。
たとえ誰に後ろ指指され罵られようが、強がりながらも必死に生きようとしているあの華奢な紅い瞳をした少女が伸ばしてきた小さな手を掴んで腕の中に抱き込み、1人で泣かせる事を防ぐ事が出来るのならば。
喜んで職を捨て、犯罪者と呼ばれよう。
薄汚れたガードレールに寄り掛かり濁った夜空を見上げた。四角く切り取られた小さな空に、星の光はどんなに目を凝らしても見つける事は出来ない。
初めてリナに出会った夜を思い出す。
紅く揺らぐ視線の先に何を探していたのか、それは本人にしかわからないけれど。
――――あいつに、満点の星空を見せてやりたいな。
不意にそう思ったその瞬間、脳裏に浮かんだのは久しぶりのリナの笑顔。
勝ち気に挑発するものではなく飾らない屈託のないリナの笑顔に、不意に胸が熱くなり、グルグルと渦巻いていたどす黒い暗い塊がゆるゆると解け、ストンと落ち着きを取り戻したのをはっきりと感じた。
「『ルビー・ムーン』はもう消える。俺が『リナ』を捕まえてみせるさ。でもあいつの望みを俺は止める事なんて出来ないからな」
むしろ穏やかな気持ちでポンポンとアメリアの頭を撫でると、くしゃりとアメリアの顔が歪んだ。
「だって・・・・他に何か方法はないんですか?」
「うーん・・・難しいよなぁ。多分無理だろ」
「このままガウリイさんもリナさんも見捨てるなんて・・・できっこないじゃないですか・・・っ」
大きな瞳から堪えきれない涙が転がり落ちる。元気すぎる笑顔がトレードマークなはずの同僚が初めて見せた涙にズキリと胸が痛むが、ゼルに目配せしてアメリアを渡した。
彼女の涙を拭ってやれるのは俺じゃない。
「ガウリイ」
「アメリアと、それ、頼むな」
苦い顔のままのゼルの手をポンと叩き、俺は軽く頷く。
「問題が発覚して俺が掴まる前に、それが受理されて退職金が入ったら、ラッキーだな」
「・・・・慰謝料として俺とアメリアで使ってやるから安心しろ」
「そうだな。高級寿司の食い放題でもおごるさ」
軽く笑うと、表情を引き締める。
「すまなかった。今までありがとう」
深々と頭を下げると、俺はくるりと2人に背を向け駅とは逆の虚ろで派手なネオンの街に向かって歩き出した。
振り返る事はなしに。
決意し走り出してしまったガウリイは、もう止まらない。誰にも止める事は出来ない。
巨大なブラックホールのような闇を抱えている大都会のコンクリートのジャングル。
未開の密林の奥を探る探険者のように、ギラついた鋭い眼差しで真直ぐ前を見据え全身に殺気にも似た闘気を纏いながら――――
ガウリイの決意と事態の深さとあまりの複雑さの前に後を追う事も出来ないまま、ゼルガディスとアメリアはガウリイの姿が見えなくなった後も長い間その場に立ち、虚しく輝くネオンの街を見つめていた。
お互いの腕を握りしめたまま。
その手を放してしまったら、きっとガウリイの後を追ってしまうだろう。そして、巨大な壁の前に立ち尽くし自分の力の無さと腑甲斐なさに座り込んでしまう。
この街の闇に完全に飲み込まれてしまったら、2度と這い上がれずに本物の光を手にする事も出来なくなるだろう。
だからこそ、そうならないようにお互いの腕を強く握りしめていた。
「・・・・・馬鹿野郎が・・っ・・・」
絞り出す声が痛い。
自分の無力さと腑甲斐なさに押しつぶされそうになりながら、けれどゼルガディスの頭は与えられた情報を整理し何か打開策がないか必死に考えている。
ガウリイはつくづく厄介な相手に惚れたものだと思う。
『刑事』と『泥棒』の恋なんて、ドラマやマンガの世界だけで実際にはあり得ないと思っていたのに。
けれど、あいつは変わった。
『ルビー・ムーン』を追い掛ける中で、気力や情熱や人間らしさと言うものが随分豊かになった。
学生時代から、容姿と最初の人当たりの良さだけは抜群なガウリイを通り過ぎていった女の数は呆れる程多い。けれど、ガウリイを本気にさせ人生を狂わせてもかまわない程自分から求めた女は『リナ』だけだ。
だから、どうしても会ってみたかった。
触れれば手酷い傷を負う事になる事を感じながらも、追い詰められたガウリイの様子と『リナ』の置かれている環境を知るごとに。
俺の力で出来るかぎり、何とかしてやりたかった。立場上そう思うのは問題であっても、ただ捕らえるのではなく、助けてやりたいと。
けれど。
現実には誰もが法の網に雁字搦めになっている。
『正義』と言う言葉に免罪符の効果があるのならば、迷わずガウリイを追い掛ける事が出来るのに。
「・・・あたしは・・・『正義の味方』になりたいから刑事になって・・・でも・・・『正義』って何なのか・・・わからなくなりそうで・・・怖いです・・・」
信念が足元から歪み崩れれば、自己を保ち続ける事は難しい。自分の存在すら信じられなくなるだろう。
蒼白になって微かに震えるアメリアのあまりにも悲痛な揺らぎに、ゼルガディスは思わず彼女を強く抱きしめた。
駅の前。タクシーを求め通り過ぎる人が一瞬好奇の目を2人に向けるが、立ち止る者はいない。こちらもそんなものに意識を向ける余裕などなかった。
今はただ、彷徨う人の群れの中で、流されないようにお互いの存在に縋り付き、自分と足元の確かさを取り戻すのが何より最優先なのだと無意識に感じているのだろう。
人の体温を求めるのは、独りでは生きていく事の出来ない人間の本能に近いのかもしれない。
幼子が親にしがみつくように強く縋り付いてくるアメリアの様子に、ガウリイのセリフが重なる。
確かに、大事に思っている彼女を罪で汚す真似はさせられない。けれど、彼女の上に降り掛かる問題を全て自分が引き受けられるのならば・・・・アメリアにも気付かれないようにそのように仕向ける事が可能ならば。
「・・・・・『目隠し』くらいは何とかやれるかもしれない」
「・・・え・・?」
ゼルガディスの低いつぶやきにパッと顔を上げたアメリアの目尻に溜まっている涙をぎこちなく拭うと、そっと身体を放した。
新しい予告状が入ったと言う情報は、あれからない。警察に連絡がないだけでもしかしたらもう他に出されている可能性も否定出来ない。
しかし、『ルビー・ムーン』が失敗した仕事をそのままにしておくとは考え難いような気がする。むしろ危険を冒しても再び挑むんじゃないだろうか。
それだけの覚悟を持って『泥棒』をやっている、彼女ならば。
だとしたら、彼女とガウリイの2人が出向く先は1つしかない。
「この世に絶対の『正義』なんてものはない。だけど、だからこそ自分が信じた『正義』を見失っちゃいけないんじゃないのか?自分が『正義』と信じて起こした行動の結果が世間に『悪』と呼ばれても、それは間違いだとは俺は思わない」
ゼルガディスの言葉にアメリアの瞳がゆっくりと見開かれた。
「俺も刑事としては失格だ。だが、あいつらを見捨てる程人間捨ててない。やれる事はまだきっとある」
その迷いのない声に、アメリアの瞳に光が戻ってくる。微かな震えも既に止まった。
「そう・・・・ですよね」
一度深く息を吸い込んでから、迷いと共に吐き出す。
「何事もまずは『当たって砕けろ』って言いますもんね!」
「・・・ちょっと違うと思うが・・・」
「いいえ!行動に移さない正義は正義とは呼べませんから、これでいいんです!」
戻ったアメリアの笑顔に、ゼルガディスも頷く。
覚悟を決めてしまえば、1分1秒が惜しかった。
アメリアを促しタクシーに乗り込む。
行き先を告げ走り出す車窓の窓から、一度だけ華やかで暗いネオンの街を振り返る。
虚ろで派手な虚飾の光の中に、確かにあるはずの輝きを信じるかのように―――――
◇◇◇◇◇
夜も明け切らない静かな高級住宅街の一角が、不意に物騒な訪問者によって騒がしくなった。
いかに早朝であって煩かろうと、その家に関わると災いが自分の身に降り掛かるだけなので、近所の家は何があろうと知らぬふりを通し切るのが暗黙のルールになっている。
だから返って動きやすい。
「朝っぱらから悪いが、組長さんのとこまで案内してもらおうか」
運悪く叩き起こされ様子を見に出された下っ端の組員を玄関から出てくるなりいきなり叩き伏せた男が、不敵に笑った――――
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