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つい数刻前までの騒がしさが嘘のように静まり返った室内。
柔らかなランプの光に照らされて、初めての授乳を終えたリナは、ぎこちない手付きで生まれたばかりの赤ん坊を慎重に胸に抱えた。
「そんなにじっと見てないでよ」
その間、固唾を飲むように真剣な眼差しで見つめていたガウリィが、リナの一言でハッと我に返り、照れくさそうにぽりぽりと頬を掻いて幸せそうに笑った。
リナも、1日がかりの大仕事を済ませた後で声や仕種に疲れを覗かせて多少顔もやつれているが、その表情はとても穏やかで、微かに頬を染めて微笑んでいる。
「なんか、不思議な感じね」
「何がだ?」
「だってね。さっきまであたしの一部で感じるだけだったこの子が、今は独立した人間としてここにいるんだもの」
すっかり母親の顔になったリナが赤ん坊を軽く揺らす。
まだ目は開かない。
口元をむにゃむにゃと動かして、小さくあくびをした。
ちょっとした仕種の総てに驚いて、そして感動する。
固く握りしめられた小さな、とても小さな手。それはまるで精巧に作られたミニチュアのようにも見える。
「そうだな。さっきまでお腹の中にいたんだもんな」
リナの肩に上着を掛けながら、ベッドの端に腰掛ける。
そしてそっと抱き寄せた。
「・・・・・すごいよな。母親って」
「そう?」
「ああ・・・・まだ、痛いか?」
本当の保護者になったというのに、今だ過保護なガウリィに思わず苦笑する。周囲の反対を押し切ってお産に立ち会った彼の腕には、あたしが作った小さな痣がいくつもあった。
あまりの痛さの為にしがみついて握り締めた時に出来た痣。ガウリィの固く張り詰めた筋肉質の腕でさえ出来てしまう程に、強く握り締めていないと耐えられなかった、痛み。
下腹部と腰にはまだ鈍痛が残ってる。
だけど、ほとんど気にはならない。この子も頑張って痛い思いをして、この世に生まれてきたのだから。
「大丈夫よ。それに大変なのはこれからなんだから」
「ああ、そうだな」
あたしの言葉に力強くうなづき、抱き寄せている手に力を込める。
その表情は穏やかながら力強くて、愛おしさに溢れている。父親の顔。
「髪はガウリィ譲りかしらね。顔はまだ人間らしくないけど」
「人間らしくないって・・・そーゆー事言うなよ」
「だってまだ真っ赤な顔してるしさ。だけど、1日毎に顔つき変わってくるんだって。うーん・・・どっちかって言うとガウリィに似てるのかしら?」
じーっと観察しているリナにつられてガウリィも赤ん坊の顔を覗き込む。
「瞳の色はまだわからんしなぁ。でも可愛い顔してる」
「早くも親バカ?」
「そうさ」
間髪入れず返ってきた返事に呆れるより先に笑ってしまう。
まぁ、この子がお腹の中にいた時からその傾向はあったんだけど。
生まれてきたのは男の子。
この子が産声を上げた瞬間、ガウリィも泣いていた。
綺麗な顔を涙でぐしゃぐしゃにして。思いっきり喜びの涙を流していた。
立ち会ってくれていた産婆さんやねーちゃんやかーちゃんに呆れられながらも。
泣きながら思いっきり抱きしめてくれるガウリィが、とても愛おしかった。つられてあたしも泣いちゃったんだけど。
嬉しい時にも涙は流れる。
これも、ガウリィが教えてくれた事。
こわごわと大きな手を伸ばして、それこそ壊れ物を扱うかのようにそーっと赤ん坊に触れてくるガウリィに、思いっきり苦笑した。
「壊れないって。ほら、ガウリィ。ちょっとこっち向いて」
ガウリィと向き合うように身体の向きを変えて、そおっと赤ん坊を差し出す。
「ちょっ、ちょっと待ってくれよ」
「なに情けない声出してんのよ。首だけ気をつけて抱いてあげて。大丈夫だから」
焦ってる新米パパににっこりと有無を言わせない笑みを投げたリナと赤ん坊を交互に見比べて、おずおずと大きい手を差し出すガウリィに、ゆっくりと赤ん坊を移し変える。
「どう?」
「・・・・・・重いな」
目を細めて腕の中の赤ん坊を見つめながら、ゆっくりと吐き出すようにガウリィがつぶやく。
「そうよ。世界と同じだけの重さだもの」
満足そうにリナが笑った。
ためらいがなかったと言えば嘘になる。
自分がいかに世界にとって微妙な立場に立っているのか身を持って知っていたから。
人の身には過ぎた力を持ってしまったあたし。
それが、生きる為に必要だったものだとしても。
強い力は他の強大な力を呼び寄せる。
世界中の魔族に存在を知られ、ごたごたが絶えない日々。
そんなあたしに穏やかな生活など送れるはずもない。どこにいても、考えなしの魔族の攻撃はあたしを狙う。それこそ、どんな手段を用いても。
そして、魔族が望む力。
生きる為に手に入れた禁断の力は、同時にこの世界を滅ぼすものだったから。
世界の命運を握るもの。
人間からも魔族からも、色々な意味で距離を取られた。
仕方のない事だけれど。
そんな厄介事しか引き寄せないあたしなのに、約束通りずっととことん付き合ってくれているガウリィ。
正真正銘の底なしのお人好し。
彼がいたからあたしはあたしでいられた。
正気を手放す事なく、両足で大地を踏ん張って。いつだって強気で真直ぐにあたしが望む道を歩んでこられた。
すぐ後ろに、時に隣に。
あたしを支えてくれるガウリィがいたから。
世界と引き換えにしても守りたかった人。
この人を失ったら、多分あたしは生きていけない。
そして、きっと彼も同じ。
だからこそ。怖かった。
この子の命があたしの中に宿ったとわかったとき。
――――大切な者が増えていく程、あたしは弱くなる。
この子はきっと魔族にとって格好の餌になるだろう。
この子とガウリィ。あたしは二人とも守りきれるだろうか・・・・・
天秤にかける事など出来ない程、大切な、大切な者だから。きっと世界は二の次になる。
予感ではなくてそれは確信。そして、どちらか1人失ってもあたしは壊れてしまうだろう。
だからこそ悩んだ。
誰よりも愛する人の子供だから。
産みたいという気持ちと、産んではいけないと戒める声。
立ち止まる事を余儀無くされる事への憤りと、少しは普通の人達のように穏やかに過ごす事が出来るかもしれないという憧れ。
今思い返すと、バカみたいに事態を重く考え過ぎてた。
“ゼフィーリアで、お前の実家の近くで暮らそう”
思いきって妊娠をガウリィに告げた時。
舞い上がって喜んでいた彼が落ち着いた後きっぱりと言った。
“俺は絶対に死なない。俺たちの家族は、俺が守るから。リナと子供も、もちろん俺自身も”
『俺たちの家族』って言った。
そう言ったガウリィの顔があまりにも嬉しそうで、涙が出そうになる。
“だけど・・・・”
あたしが何を心配しているのか、言葉にしなくても感じ取ってくれる。いつも不思議な程。
“念には念をって言うだろ。あの人たちの近くなら魔族も簡単に手を出してこない。使えるものはなんでも使えってやつだよ”
とんでもない事をウインクしながら言う彼に、あたしは思わず吹き出していた。 久しぶりに心から笑ったあたしをしっかりと抱きしめてくれる。その強さに彼の覚悟を感じた。
“ねーちゃんととーちゃんを利用するの?それこそ命知らずだよ”
“そのくらいの覚悟の上さ。ついでに俺ももう一度修行し直せるし、な”
ガウリィもちゃんとわかってるんだ。
ガウリィの覚悟も半端じゃないんだ。
わかったら、途端に肩の力が抜けた。ただ素直に宿ったばかりの命が愛おしかった。
それからすぐにゼフィーリアに移って、あたしはこの子を守り、ガウリィはあたしをこの子ごと守ってくれた。
そして、そんなあたしたちを実家のみんなが守ってくれた。
昔は誰かに守ってもらうだけなんて嫌だったのに、今は素直にこの好意を受けられる。
そして今日、この子が生まれた。
快適で安全な体内から、危険も感動もはかりしれない光溢れる外の世界へ。
今はあたしと分離して、1人の独立した人間として。
自分の存在を誇示するかのように大きな声で泣いた声。
初めておっぱいをあげた時の強い吸いつき。
本能に従ってめいいっぱいこの小さい身体で生きてる。生きる貪欲さはあたしたち譲りだ。
「あ、寝ちゃったぞ」
「父さんの腕も安心出来るってわかったのよ。貸して、ガウリィ」
小さな寝息をたて始めた赤ん坊を再びそぉーっとあたしに返して、ほっと息をついた。
「やっぱり緊張した?」
「そりゃするさ」
「早く慣れてよね。明日からこの子のお風呂はガウリィの仕事なんだから」
「えええっっ?!うっ・・・わかった。がんばる」
あたしの言葉に再びうろたえるガウリィ。でも、すぐにこくこくと首を縦に振る。子育てはきっちり協力してもらうもの。
赤ん坊を自分の隣に寝かせて、あたしも横になった。
「名前、決めてね」
「ああ」
毛布を直してくれながら赤ん坊の額に、そしてあたしの唇に。柔らかなキスをくれるガウリィ。
「リナも疲れてるだろ?俺がここにいるからお前も眠りな」
「んー・・・疲れてはいるけど、なんか目は冴えちゃってるんだけどな」
「だけど、ゆっくりできるのは今日だけなんだろ?目を閉じてればそのうち眠くなるさ」
「そおね。んじゃお言葉に甘えて」
ぽんぽんっと叩いてくれるリズムに次第に眠気が降りてくる。でも、眠ってしまう前にこれだけは言っておきたかった。
「ガウリィ・・・幸せになろうね。この子が生まれてきた事を誇れるように。胸を張って生きていけるように・・・」
「ああ・・・今まで以上に、もっともっと、幸せになっていこうな」
この世界に生まれてきた命。
この世界よりも重い、けれどとてもちっぽけな命。
世界分の1の存在、だけど。
あなたを産んだ事をあたしは誇りに思うよ。
この世には辛い事、悲しい事が多いけれど。それらを乗り越える強さをあなたに必ず教えてあげられる。
あなたは望まれて、愛されて生まれてきたのだと。
あなたがいつも笑っていられるように、あたしたちは何があっても生きてみせるから。
あたしたちの子供に生まれてきてくれて、ありがとう。
握りしめられた小さなこぶし。
左右の手に、父母の愛情と希望をしっかりと掴んで。
今日―――長い長い人生を歩み始めた。
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