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柔らかな膜を破るのはいつ?
心地良い腕から旅立つ時はいつ?
2度目の巣立ちの時はいつ?
あたしはその時を望んでいる。
あたしはその時を恐れている。
今すぐにも飛びたちたいと思う。
このままずっとこの場所で守られていたいと思う。
矛盾しているけれど、どちらも真剣な思いで願い。
いつからかあたしの中に生まれた想いと同時に沸き上がってきた願いは、でも言葉に出すことは出来ないまま――――
◇◇◇◇◇
若葉の色が目に優しい。
太陽の光を受けて、嬉しそうに誇らしげに煌めいている。少し強めの風を受けて、さわさわ、きらきら、楽しげに若葉が揺れている。
「いー匂い・・・」
鼻孔をくすぐっていった甘い匂いにふと足を止めて、きょろっと回りを見渡した。
「どうした?」
一歩後ろをついてきていたガウリイが、不意に足を止めたあたしに声をかけてくる。
「今の風に花の香りが移ってきたでしょ?どこからかと思って」
一歩の距離をゼロにして、再び歩き出したあたしの隣に並んできょろっと回りを見渡した。
この山道に入ってから良い香りがしていた。
柔らかく甘い、花の香り。
春真っ盛りの頃にも誇らしげに咲き誇る花の空気は甘かったが、萌える若芽の山でこんなにも空気が甘いのはどこか不思議な気がしていた。
香る花が春だけのものではないってわかってはいるんだけど、鮮やかな若芽が香っているようなそんな感覚がして。
「花なんて咲いてるように見えないんだけどなぁ」
「ちょっと離れた所か、木の葉に隠れてるんでしょうね。この香りは多分アカシアの花だと思うし」
「アカシア?」
「そ。んっとね、白い藤に似てる・・・ガウリイ仕様で言うと、ぶどうの房みたいな感じの花よ」
「・・・・俺仕様って・・・」
「食べ物の形に当てはめればあんたの頭でも想像はつくでしょ?」
「・・・確かに」
苦笑したガウリイの隣であたしも笑いながら大きく息を吸い込んだ。
つられてガウリイも大きく息を吸い込む。
「・・・俺にはちょっと甘過ぎるかもしれないな」
「そっかな?あ、ねぇ、ガウリイ」
「ん?」
「この近くでみつばちの巣を見つける気、ない?」
「は?」
きょとんとしたガウリイにクスクス笑いながらちっちっちっと指をピコピコ振ってみせた。
「蜂蜜ってね花によって味も香りも変わるのよ。アカシアの蜂蜜って人気品だから高値で取り引きされてるのよね。これだけ香るって事は近くに群生してるんだろうし、絶対側に蜂の巣があると思うのよ!」
「・・・・んで?小遣い稼ぎに俺に山の中捜せって?」
「だめ?」
おねだりポーズで可愛く首を傾げて上目使いで見上げると、苦笑と共に大きな手がぐしゃぐしゃと髪を掻き回してくる。
「んなことしてたら、今日中に山をこえられなくなるだろ?野宿になってもいいのか?」
「それはヤダ」
もとから本気じゃなかったただの思い付きでしかないから、あたしも軽く肩を竦めただけで再び歩き出す。
山の天気は季節を問わず変わりやすいってのが相場だし、今日は良い天気で暖かい季節だと言っても、風は強めだし朝晩はまだ冷える。
野宿はできるだけ遠慮したい。
身体的負担だけじゃなく、あたしの精神的負担の軽減の為にも。
いつの間にかまたあたしの一歩後ろを歩いているガウリイをちらっと盗み見て、花の香りを吸い込みながら、そっと心を落ち着けた。ため息をこっそりと飲み込んで。
いつからなんて知らない。
どうしてなのかもわからない。
気がついたらそうだった、としか言えないから。
だから、今のこの状態は結構辛かったりするのだ。
居心地がよくて、いっそのこと全てを壊してしまいたくもなる。
その一方で、綻びさえ作らないように細心の注意を払って守りたいと思うのも事実だ。
壊したくて、守りたいもの。
それは、あたしたちを包む空気であり、柔らかな膜。
何気ない顔をして変わりのない日常を過ごしているけれど、あたしの中の心の揺らぎは日々大きくなってきていた。
人は、どの瞬間に、『好き』という感情に気付くのだろう。
気付くと同時に、何故、こんなに辛かったり困ったりする感情に振り回されてしまうのだろう。
切なくて涙を流すこともあるのに、でも幸せだと思ってしまう、心の不思議。
あたしがこんな感情に振り回されているなんて、このクラゲな自称保護者は微塵も感じてはいないはずだけど。
知られたくなくて。
でも、知って欲しくて。
あたしはガウリイが『好き』で、その感情はわかってて。
でも、ガウリイはあたしをどう思ってるのか、それは全くわからなくて。
ガウリイに対して『好き』なのはわかったけれど、だからどうしたいのかはまだよくわかってなくて。
マニュアルなんてないし、故郷にいた頃は、この手に関しての女友達たちのうわさ話や会話は興味がなかったから聞き流していたし。
だからといって、他人にこんな事を話したり相談するなんて、んな自分から弱味を晒すなんて事あり得ないし。
結局は自分で何とかしなくちゃいけない。それは充分わかっているんだけれど、何でか心細くて。
――――パサガサ・・・パタッ・・・・
強い風が吹いた後、木々の葉擦れの音に混じって通りかかった木の下に何かが落ちてきた音が聞こえた。
同時に聞こえた鳥の羽音にふと足を止めて空を仰ぐと、飛び立った鳥が、道にはり出している大きな木の枝に止まって、こちらをじっと見下ろしていた。
「リナ?」
「ん・・・」
立ち止ったあたしをガウリイが覗き込む。
すぐ側の草の茂みが風ではないものに微かに動いて、予想していた通りの物がひょこっと道に飛び出してきた。
あたしたちに警戒しているのか、枝に止っている鳥がチィッと小さいけれど鋭いさえずりを漏らす。
その声を聞いて、飛び立つのに失敗した羽根のはえ揃ったばかりの雛が焦ったようにバタバタと小さな翼を動かして空を見上げている。
一見した所では怪我をしている様子は見られない。
羽ばたこうとしているし、ピョコピョコ動いているから足も異常はないだろう。
ただ、落ちたショックでバランスを崩してしまっているようだ。
立ち止ったあたしの隣で、ガウリイも止って何も言わず雛鳥を見つめていた。
あたしもガウリイも、ただ見つめているだけ。
今は春に生まれた鳥たちの巣立ちの時期。
飛ぶ練習をしていた雛鳥が、失敗して地上に落ちてしまっているこんな風景は、この時期はよくあることだ。
だけど、何だか今は見守っていたかった。
くちばしの端がまだ黄色い、おそらく始めて生まれ育った巣を離れようとした、この雛鳥を。
生まれてから始めての試練を受けている、小さな命。
無条件の愛情の元に、ただ守られ与えられていた世界から突然投げ出され、戸惑っている。
手を伸ばしすくいあげ、頭上の枝から様子を見守っている親鳥の元に届けたくなる衝動を堪える。人間の匂いがついてしまうと、野生の生き物は自然から拒否されてしまうから。それが飛び立ったばかりの小さな命でさえ、親は拒否してしまう。
だから、ただ見ている事しか出来ない。
それが、ルール。
そう・・・ルールのはずなのに。
不器用に羽ばたきながら垂れ下がっている下枝に飛びうつろうと頑張っている雛鳥の様子を見ている内に、いつものもやもやした感情が沸き上がってきた。
切なくてちょっと苦しくて、でも、この空気を染めあげているような甘さも感じる。
柔らかで甘い、でも胸をじわじわと締め付けられる、薄い膜。
居心地の良くて、でも苦しいこの膜から、あたしはこの雛鳥のように旅立つことが出来るだろうか。
高い木の枝で待っている親鳥を必死で追い掛ける、不器用な雛鳥のように。
いつか、肩を並べて大空を飛び回れる為に。今は危なっかしい姿を晒しても、空を諦めないその姿が、あたしの胸を締め付ける。
あたしだって、諦めたくない。
でも、正直、不安で。
今すぐにも、飛び立ちたい。
だけど、このまま守られていたいとも思う。
この気持ちに気がつかなければ、こんなこと思わなかったかもしれないけれど。
雛鳥を見つめながら意識は内面に向かっていたあたしの目がふと、揺れる下草に固定された。
ハッと身体を強ばらせたあたしが動こうとするのを、いつの間にか隣に並んでいたガウリイの手がさり気なくとめる。
振り仰いだガウリイの表情は、穏やかなまま変わりない。
気付いているはずなのに、雛鳥を見ている視線は真直ぐなままで落ち着き払っている態度に、キュっと唇を噛み締めた。
あたしだって、わかっているはずだけど。でも、こんな平然としてられない。
ようやく下枝に飛び移ることの出来た雛鳥を狙う視線。
自然界の食物連鎖。弱肉強食。
空腹の蛇にとって、地上に落ちた雛鳥は何よりの御馳走だろう。
わかってる。それが自然界の掟だとわかっているけれど・・・。
チィッ、と。高い鳴き声が甘い空気を裂く。その警告を受けて、思うように動かない翼をばたつかせ更に空に近づこうとする雛鳥を、その長い身体をくねらせてゆっくりと射程距離内へと近づいてくる。
一瞬の、緊張感。
蛇が鎌首をもたげるよりも。
雛鳥が思いきり飛び上がるよりも。
あたしが足元の小石を蛇に向けて蹴りあげるよりも。
それは、早かった。
いつか見せたように。いつの間に取り出したのか、ガウリイの指先から放たれた小さな木の実が、甘い空気を切り裂いて蛇の頭に命中していた。
ガサッと小さな音を立てて、力を無くした蛇が茂みの中に倒れこむ。必死になって羽ばたいていた雛鳥は、何とか飛び上がって親鳥の元に辿り着いた。
その様子を見て、思わず大きな息をつく。
安堵といら立ちとが混ぜ合わさったため息があたしの唇から漏れた。
「・・・・結局ガウリイって、甘いよね」
「だってなぁ・・・見ちまったもんは仕方ないだろ?」
困ったような苦笑を口元に乗せて、ガウリイが手のひらに乗せた木の実を玩びながら、もう片方の手をあたしの頭に伸ばす。
「何にでも手を出して守ってやるのは筋違いだってわかってるけどな。でも、あんなの見ちまうとお節介したくなるだろ?」
「あたしは止めたくせに?」
憮然としたあたしの声を受けて、ガウリイの手が宥めるようにあたしの頭をゆっくりと撫で下ろしていく。
「ん〜、止めたってほど強くでたつもりはないんだが。すぐに助けちまうとチビ助の為にならんからさ」
「チビ助って、あの雛鳥?」
「ああ。命を狙われる恐怖も、必死に逃げる努力も、これから生きていく中で絶対に必要なものだしな。知ってるのと知らないのとじゃ大違いだろ?」
「・・・・まぁね」
小さく息をついて、あたしはゆっくりと歩き出した。
いつものように、一歩遅れてガウリイが後ろについてくる。
後ろから見守る距離。
ガウリイはあたしに甘いけど、でも、決して甘やかしているわけじゃない。
あたしの実力を認めていて傍観してて。それでもあたしが回避出来ないような危険がある時には、躊躇わず手をのばせる距離を保っている。
その一歩の距離が、心の距離。
まだ、隣に並び立てないもどかしさが胸に燻る。
それは柔らかで暖かい、膜。
一人立ちしたはずのあたしを、再び包み込んでしまった。
2度目の巣立ちは、1度目の時よりより痛みを伴って離れがたいというのに。
――――自称保護者と言う、甘い痛みを伴う境界線。
いつか、この柔らかな膜から飛び立って、そして舞い戻りたい。
その時は、いつも隣に並んで歩けるように。
望むのは、対等な関係。年令なんて関係なく、ただ、あたしを見て欲しいから。
その時には、真直ぐにガウリイの瞳を見て、『好き』って伝えられると思うから。
「・・・・・・飛び立てるかな・・」
ぽつりと呟いた声は、後ろのガウリイには届くことなく甘い香りの風に乗って飛んでいった。
――――巣立ちと同時に子離れが行なわれ、新たに2人肩を並べて歩き始めたのは、瑞々しい若葉の季節が終わり、いつしか色鮮やかな色彩に木々が染められた季節の、ある天気の良い日の事だった。
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