プロローグ〜夢の狭間で覗いた夢〜


 

 ふわりふわりと意識が揺れる。


 (……誰?)  
 曖昧な感覚の中、微かに聞こえてきた誰かの話し声に耳を傾けようとした途端、曖昧になった身体ごとすうっと引き寄せられるような感じがした。
 この感覚には覚えがある。
 (……ああ……ここは夢の中なんだわ……)
 そっと目を開けば、目の前に広がるのは輝石の欠片が闇に溶けこみ淡い光を滲ませた、上も下もない空間。
 この不思議の世界に連れて来られてからすっかり馴染みとなった夢の中だった。
 悪い夢じゃないことに安堵の溜息をついてから、しかし目の前に広がるいつもとちょっと違う光景に僅かに首を傾げた。
 (ナイトメアと、ペーター?)
 ここは『夢魔』であるナイトメアが支配する領域。だからナイトメアがいることは何の不思議もない。むしろ、ナイトメアがいて初めて成り立つ場所だ。
 けれど、ここにペーターの姿があることはかなりの違和感を感じた。
 薄い笑みを口元に湛えながらふわふわと浮かぶナイトメアを冷たく見上げているペーター。
 私以外の人に向けられる彼の冷ややかな赤い瞳は、今は何故かどこか不安げに苛立っているようにも見える。
 (本物のペーターかしら?)
 夢にも現実にも自在に出てくる夢魔のせいで、私の中の『夢』という概念はかなり変わってしまった。
 私が見ているはずの夢に出てきた彼らは、普通ならば私が生み出した『夢』…本物ではない幻の存在。でもナイトメアがいるならば、ここにいるペーターは私の生み出した『夢』ではなく、現実の彼とほぼ同一ともいえる存在だ。
 眠る者の意識を、時には身体ごと自在に夢の中に引き込むことが出来る夢魔の能力。
 けれど、彼と同じ『役もち』と呼ばれる人たちは、ナイトメアに呼ばれなくても夢の中で彼に呼びかければ自ら夢の中に出向くことが出来るらしい。
 ずっと夢の中に引き篭もっていたナイトメアを、彼の部下であるグレイが引きずり出した、らしいし。
 私がこの2人の夢を見ている、という可能性は0ではないけれど、この空間にいるのならばきっと本物なのだろう。この世界では、必ずしも夢は1人で見るものとは限らない。
 「あなたたちが揃って夢の中にいるなんて珍しいわね、ナイトメア、ペーター」
 どちらが呼び出して呼び出されたのかはわからないが、『会合』や『サーカス』のようなこの世界のルール上で会うことはあっても、滅多に顔を揃えることはない組合せの2人がいることに興味が沸いた。
 しかし、私の呼びかけに2人は反応しない。
 (聞こえていないの?)
 耳からの言葉だけでなく人の心の声まで覗き込む夢魔で、しかもここは彼の領域。私の声がナイトメアに届かないわけがない。
 それに、ペーターの無駄に長い耳だって、自分の都合のいいように変換してしまったり人の言うことなんか聞かないことも多々あるけれど、ペーターが私の呼びかけを無視するなんてありえない。
 認めるのは不本意ながらも、良くも悪くも彼は私のことしか考えていない筋金入りのストーカーだ。
 『私の幸せ』だけを望んで、私をこの物騒でおかしな優しい世界に引きずり込んだ張本人。
 一方的に盲目的で純粋な愛を鬱陶しいほど捧げられているけれど、この世界を好きになり元の世界を捨てこの世界で生きていくと決めた今では、ある種の達観と共に私も彼を受け入れている。
 そんな彼らが私を無視することは考えられない。だとしたら……
 (…もしかして、私の姿は見えてもいないのかしら?)
 よく見れば、私の視点は宙を浮くナイトメアよりも上だった。彼らをそっと覗き込むように見下ろしている。
 (…やっぱり、これは私の見ている夢?)
 単に夢の中なのか、それとも夢の中で夢を見ているのかわからなくなってくる。
 困惑しながらも2人の様子を覗いていると、ナイトメアを睨みつけていたペーターが重い口を開いた。


 「……どうしても彼女を落とさなければならないのですか?ナイトメア」
 「ああ、アリスは知らなければならない。『知識』としてではなく『経験』としてね」
 「けれど…『ダイヤの国』は危険だ。やっとサーカスの季節が過ぎたところなのに、また彼女を危険に晒すなんて…」


 (『ダイヤの国』?)
 ペーターの口から零れた聞きなれない国の名前に首を傾げた。同時に嫌な予感が湧き上がってくる。
 (ちょっと待って。今、私を『落とす』とか言わなかった!?)
 私がこの世界に来たのは、ナイトメアが繋げた穴にペーターが私を抱えて落ちたから。
 私をこの世界に連れてきた張本人たちの何やら物騒な会話に、また世界が大きく変わってしまいそうな確信めいた予感がした。
 でも、そんな予感はちっとも嬉しくない。

 朝目覚めたら、『ハートの国』から『クローバーの国』へと世界ごと変わっていた『引越し』。
 朝目覚めたら、いきなり全ての季節がサーカスと共にやってきた『ジョーカーの国』。
 少し馴染んだと思っても、この世界は私の世界観を簡単にひっくり返す。
 変わらずに馴染んで、このまま続いていく安心感などもたせないかのように。
 私は変わらないものが欲しいのに。

 「アリスの存在はこの世界に上手く混ざりこみ始めている。このままいけば、そう遠くないうちに真に我々の一員としてこの世界の時間の1つとなるだろう」


 私の不安をそのまま映し出したかのような表情でナイトメアを睨むペーターに、彼は軽く肩を竦めた。
 「既にアリスの存在は『余所者』とは言い切れない程この世界に馴染んでしまっている。だからこそ、まだ『余所者』として認識される…好かれる要素が高いうちに経験させなければならない」
 「…けれど、危険なことには変わりないじゃありませんか。ダイヤの国では僕が側で守ることも出来ないのに」
 「私たちでは教えられないのだから仕方がない。うんざりするほどの命を繰り返している中で、今の私たちには『役割』しか残っていないのだからな」
 嫌がって頑固になっている子供を宥めるように、ナイトメアはゆっくりと言葉を紡いでいく。
 いつもは子供じみた我儘で情けない姿を晒しているのに、時々彼は他の誰よりも思慮深い年を重ねた大人の顔を見せる時がある。
 全てを受け止め包み込みながらも、厳しい現実から目を背けることは許さない。慈愛を込めた『導く者』の顔をしたナイトメアの灰銀の瞳には、全てを見透かし覗き込む『夢魔』としてのものとも少し違う力が感じられた。
 諦め悪く感情で反論しても、最終的に絶対に見逃してはもらえない。

 (そこまでして私が知らなきゃいけない事って何?)
 ナイトメアやペーターがこの世界について丁寧に教えてくれたかと言えば、そんな事はない。むしろ、教えて欲しいことほど隠されてきた。
 私に対しては過保護なほどに甘やかす彼らが、そこまでして伝えなくてはならないものとは何だろう。
 (……怖い……)
 触れてはいけないような気がする。
 サーカスの裏側のように、覗いてしまったら、知ってしまったらもう素直にこの世界を見れなくなってしまいそうな。そんな気がする。
 知らなくても済むものならば知らないままでもいい。そう思ってしまうのは弱さと狡さだとわかっているけれど、ジョーカーに振り回されて辛い思いをした記憶はまだ新しいし……?
 (あれ?…私ジョーカーに何をされたんだっけ…?)
 季節を引き連れて突然やってきたサーカスは、季節の余韻を残しながらゆっくりと消えていった。
 淡く甘い色と香りに包まれていた春のハートの城。過ぎ行く春を惜しみながらも、潔く散っていく満開の桜を見上げていたのはいつだった?
 (桜吹雪が凄くて…視界が遮られてしまって…)
 鮮明だった記憶が思い出した桜吹雪と共に流れて消えていく。遠ざかっていく賑やかな中にどこか哀愁を漂わせるサーカスの音楽と共に、手放してはいけない記憶に靄がかかっていく。
 キラキラと輝いていた季節が消えて、優しい『嘘』が解けていく。
 あるべきものがあるべき場所へ。
 (あれは、夢だったの?)  
 手を伸ばしても掴めない。指の隙間から零れ落ちていく。

 何が夢?どこからが夢?

 

 「ダイヤの国は『if』の世界……アリスの知っている今のこの世界から、あったかもしれない過去が入り乱れている分岐の国だ。しばらくは混乱させてしまうだろうが、彼女の順応性は高いからな」

 消えていく記憶に混乱している私の耳に、2人の声が囁きのように届いた。
 「ナイトメア!?ペーター!」
 2人を高みから見下ろしていた私の視点がどんどんぼやけて遠ざかっていく。
 夢から目覚める時と似ている、でもいつもと違う。
 はじき出されてしまうのは、夢の世界から?それともこの国から?

 「……ダイヤの国と言うだけでも忌々しいのに、万が一でもアリスが気に入ってしまったらどうするんです。気に入ってダイヤの世界で暮らしていくことにでもなったら」
 「それは仕方がない。いつだって最後の決断を下すのはアリスだ。アリスが本気で望むのならば、我々に出来るのは彼女の幸せを祈りながら見守るだけだよ、白ウサギ」
 「……そんなこと、あなたに言われなくてもわかっています……」
 「ふ…理性と感情は繋がらない、か」
 「……それはあなたも同じでしょう、ナイトメア」
 更に赤みを増した瞳に睨みつけられて、ナイトメアは僅かにペーターから視線を逸らせて苦笑した。

 (待って!また勝手に決めないでよ!)
 話の流れからして、渋々ながらもペーターはナイトメアの提案を受け入れるようだ。でも、腹立つことに肝心な私の意志はどこにもない。
 (どうしてあんたたちはいつもいつも人の話を聞かないのよ!私はどこにも行きたくなんかないのに!)
 それなのに、どんなに叫んでも勝手に話を進めていく2人の耳には私の声が届かない。
 (…これも、夢?どこからが夢なの?)
 たった今見聞きした2人の会話の内容も、遠ざかると共に薄れていく。


 「君の覚悟が出来たら私が道を開こう。途中までは君が送っていくといい、白ウサギ」
 「当然です。彼女の案内人はこの僕です」
 「わかっているよ。君が踏み入れない先からは私が導こう。どの道ルールを破るのだから1つも2つも変わらないさ」
 「…ペナルティを受けたとしても、あなたに同情も感謝もしませんよ。ナイトメア」
 「つれないな。ま、覚悟の上だ。君に心配されるまでもない」
 「あなたの心配なんてしません。……きっとアリスは戻ってきてくれますよね……」
 「……それは……彼女次第だよ。戻ってきてくれれば嬉しいが、ダイヤの国もこの世界の一部だからね。アリスにとってこちらに戻ってくるのが最善な選択とも限らない。それでも、逃げ出したくなれば帰り道はいつだって用意されているのだから」
 ポツリと心細げに呟いたペーターに、ナイトメアが少し寂しげに微笑んだような気がする。
 でも、もう意識を保っていられない。

 (待って、ペーター、ナイトメア。私は……)
 私は、ここにいたいのに。
 狂っていても時が流れている以上、留まり続けることなど出来ないのだと突きつけられる。

 

 ーーー次に目覚めたとき。私がいるのはどの世界なのだろう……