右肩の蝶〜プロローグ〜


 

 (ーーーアリス)

 私を呼ぶ声が聞こえる。
 低く柔らかな、どこか楽しげな耳に心地良いテノールが、繰り返し私を呼んでいる。

 「……ナイトメア?」

 声の主を認識すると同時に、私はほっと身体の力を抜いた。
 彼の声がするのなら、ここは夢。
 日曜日の午後に突然現れたおかしな白ウサギに連れて来られた、悪夢のようなおかしくて物騒な…それでも私に優しい時間に狂った赤の世界(ハートの国)。
 そんなおかしな世界の中でも、夢の中にしか現れない彼は『夢魔』だ。
 ナイトメアがいるから、ここは夢。

 (そうだよ、ここは夢だ。だが、そろそろ起きてくれないか?)

 「え?」
 私が眠って夢の空間に来るといつもすぐに現れるのに、何故かナイトメアは声をかけてくるだけで一向に現れない。しかも、もの凄くおかしな事を言い出した。
 「起きろって……何よ、失礼ね。来た早々追い返すつもりなの?」
 (いつもは、起きて表に帰る私を引き止めるくらいなのに)
 反射的にムッとすると同時に不安になる。
 私は彼に嫌われるような事を何かしてしまっただろうか……思い当たるとすれば、頻繁に吐血する重病人のくせに、薬も注射も病院も大嫌いだと大人げなく騒いで逃げまくり夢の中に引き蘢るどうしようもなく情けないナイトメアの為に、私の意思で創り出した薬を無理矢理飲ませたこと、だろうか。
 この世界に来てから、彼と夢の世界で過ごす時間もかなりのものになった。
 私の夢は、ナイトメアの夢。
 ナイトメアが創り出す夢は、彼のものであると同時に私の夢でもある。
 私の意思で望みを形にすることも、少しずつ出来るようになってきた。だからこそ、最近は医学書を読みあさり、ナイトメア相手に実験している。
 彼の病状が『病は気から』と言う状態では済まないレベルなのは充分わかっているが、それでも手をこまねいて病気から逃げ回るナイトメアを見過ごし続けるのは悔しいし、嫌だったから。
 『友達』だとしても、到底放ってはおけない。
 それが『大切な人』だとしたら、なおさら。

 

 恋愛なんてこりごりだった。
 元々可愛くないし、性格だってネクラで捻くれてるし、誰かに選んでもらえるような子じゃない。
 誰からも愛される完璧な女性…姉さんのようにはなれなかった。
 だから、恋愛なんてしばらくはするつもりもなかったし、この世界に連れ込まれてどう言うわけかこの世界の住人たちに好意を向けられても、最初のうちは喜ぶより気味悪がって警戒するだけだったし。
 それなのに、いつの間にかすっかりこの世界に馴染んでしまった。
 そして……気付いたらたくさんの友人の中の1人に、恋をしてしまっていた。
 いつだって現実主義で冷めた目で、自分の事も回りの事も見ていた私が、このおかしな世界と元の世界を天秤にかけてしまう程に。
 恋した相手は、このおかしな世界でもよりによってとびきりおかしくて曖昧な存在の、夢の中の夢の人。
 自分でもどうかしてると、今でも思ってる。 
 元の世界を捨て、このハートの国で暮らしている事。
 時計塔のユリウスの元で滞在させてもらいながら彼の仕事を手伝い、たくさんの友人と時に賑やか過ぎる日々を過ごし、そして夜になれば眠りについた夢の中でナイトメアと過ごす。
 夢の中でしか一緒に過ごす事の出来ない、恋人。
 確かなものなど何もない、ただ好きだという気持ちだけで私はこの世界に残り生きていく事を決めた。
 それでも、恋に溺れた愚かな私を責めるかのように、時々優しい姉と懐かしい元の世界の夢を見る。
 今が幸せだと思えば思う程、もう戻れない日々は身勝手な私を容赦なく責める。
 姉との約束も、私が果たすべき責任も、全て投げ出してここにいる私を。姉はただ、いつもと変わらない奇麗で優しい笑顔と声で呼ぶだけ。それだけで『責められている』と感じる私の心が浅ましくズルいのだ。
 この世界を、ナイトメアの傍にいる事を選んだのに、いつまでもしつこく元の世界を振り切れない。
 そんな私を、それでもナイトメアは見守ってくれていた。
 夢だけでなく人の心を読める彼には、何も隠し事など出来ないから。
 醜い私の心でさえ受け入れて、その上で私を望んでくれて傍にいてくれるナイトメアに、私はすっかり捕われていた。
 相変わらず吐血するし病院嫌いで引きこもりだけど、情けない姿に呆れる事も多いけれど。
 彼を好きだと思う度にこの世界を好きになり、馴染んでいく私がいた。
 夢の中でしか逢えない事にもどかしさを覚えるときもあるけれど、彼がいるこの場所が、私の居場所なのだと。

 

 闇の中にぼんやりとした貴石の輝きが瞬く夢の世界。
 今ではこの場所こそが私の居場所。眠る度に『帰ってきた』と思える、どこよりも安らげる居心地のいい空間、なのに。

 (あー……あれは酷かった……一体何の成分を思い描いたか知らないが………うう…思い出しただけで具合が悪く……)
 心を読めるナイトメアに、私の心は筒抜けだ。しかもここは夢の空間。私の記憶に触れてダイレクトに思い出したらしいナイトメアの声がげっそりとしていた。

 「あれは謝ったじゃない。今日は何もしないから出てきてよ、ナイトメア」
 なかなか姿を現さないナイトメアに不安になる。
 どうして出てきてくれないの?
 私だけじゃ、奇麗で楽しい夢なんか見られないのに……

 (アリス)

 不意に、何かにふわりと包み込まれるような感じがした。
 姿を見せないまま、ナイトメアに柔らかく抱きしめられたように。不安な心をそっと宥められるかのように。
 無意識に強張っていた身体からゆっくりと力を抜いて息を吐いた。
 同時に、私の回りにいくつもの小さな光が現れた。
 それは淡く光る蝶になって、この夢の空間の瞬きに同化していく。
 「待って……」
 あれは、あの蝶は私の大切な……!
 慌てて手を伸ばしても、蝶は私の指をすり抜けて逃げてしまう。

 (アリス、大丈夫だ。君が心配する事はなにもない……さあ、起きてくれ)

 「ナイトメア」

 わけがわからない。
 何が『大丈夫』なのか。ナイトメアが一向に姿を現さない意味も。それにあの蝶の事だって……!

 (心配いらない。夢と記憶は曖昧で、決して消えてしまう事はない……見えなくなっても、ちゃんとここにある)

 「何の事?ここにきてちゃんと説明してよ、ナイトメア!」

 (目覚めたらわかる。待っているんだ、君を)

 姿はないのに、楽しげな声が耳元で誘う。
 夢魔の囁きに意識がふわりと浮上する感覚……目覚めを促される力に抗えない。

 (さぁ、起きてくれ。扉を開けてーーーさあ、もう1度ゲームを始めよう)

 

 ナイトメアのそんな言葉を薄れる意識の中で聞いた……ような気がした……ーーーー


 

♪『右肩の蝶』よりプロローグです。

アニバーサリー→クローバーのナイトメア×アリスです。以前に発行した『magnet』の続編でもありますが、単品でも全然大丈夫です。
ハッピーエンドのその後はずっとハッピーのまま?
やっと両思いになったのに、『引越し』の影響でその記憶をなくしたままクローバーの塔に落ちてきたアリスと、現実に出てきたナイトメアはもう1度恋人同士になれるのか?

気が向いたら読んでやって下さると嬉しいです♪