my room


 

 土地とその上に立つ建物や住まう人ごと気まぐれに移動する、この世界の『引越し』。
 一晩のうちに世界ごとひっくり返ってしまった…眠っている間に、『ハートの国』の『時計塔』から私だけが弾き出されて、目が覚めた先は見知らぬ『クローバーの国』の『クローバーの塔』。
 いくらこの世界が常識はずれの夢のようなでたらめな世界だったとしても、これはあまりにも酷すぎる。
 散々悩んだ末に、元の世界に戻らずにこの世界に残った。
 銃弾飛び交う物騒でおかしな、それでも優しいこの世界で、私は自分の居場所を見つけたと思っていたのに。
 「こんなの、まるで悪夢じゃない」
 突然すぎた初めての『引越し』での一方的な別れに、混乱と不安と悲しみのあまりの理不尽さに思わずそう詰め寄った私。
 そんな私に、夢から出てきた夢魔が、楽しそうに少し寂しそうに笑っていた…

 

 

◇◇◇

 

 

 突然の『引越し』と、『引越し』によって不安定になった世界を安定させる為に開かれていた『会合』。
 何度か繰り返した会合も終わりを告げ、クローバーの国は少しずつ落ち着いていた。
 もう、森で泳ぐ鯨の鳴き声が夜空を震わせることもない。
 曖昧になっていた全ての境界がはっきりして、もう道が勝手に移動することもない。
 そして、混乱していた私の心も、慌しく会合を繰り返す中で少しずつ落ち着き、この世界に順応してきた。
 残してきた『ハートの国』に対する未練はなくなることはないけれど、『クローバーの国』に馴染みこの場所を好きになっていけばいくほど、不安や寂しさよりも切なさを伴う懐かしさに少しずつ変化していく。
 どんなに狂っていたとしても、流れていく時間はどんなものにも変化を促していくものだから。
 でも、その変化は時に思ってもみない方向に流れることもある。
 『クローバーの塔』に滞在を許され、そこで仕事を与えられて忙しく過ごす日々の中で、心の奥底で頑なに閉ざしていたはずの感情が、いつしか小さな花芽となっていたことに気付いて戸惑うこともあるように。

 

 

◇◇◇

 

 会合期間中は、会合参加者は原則的に皆この塔に宿泊する…ルールとはいえ、関係者以外に塔内をある程度開放しなければならないのは、何度も『引越し』と『会合』を経験している塔の人たちにとっても結構なストレスだったらしい。
 客人たちがいなくなって静かになった塔に思わず安堵の溜息をついたのは、どうやら私だけじゃなかったようだ。

 「お疲れ様。みんなもやっと落ち着けるわね」
 「あ、アリス様」
 「アリス様こそお疲れ様です」
 グレイと2人がかりで宥めたり煽てたり脅したりしてやっとナイトメアにやらせた仕事の書類を届けに来た先で、いつになく力の抜けた同僚たちの姿に思わず苦笑してしまった。
 どこまでも仕事嫌いで病弱で頼りない人物が上司のせいか、塔に従事する者はグレイを筆頭に、そんな放って置けない上司を何とか支えるべく仕事熱心な人が多い。
 だからこそ、大きな仕事が終わった安堵感に少しだけ気を緩めていたのだろう。
 気の緩んだ姿を私に見られて困ったようにそわそわしている彼らに、もう一度苦笑してしまう。


 塔主で領主のナイトメアの友人と言うだけで、私に与えられた仕事は何と『塔主補佐』。  いくら私が彼らに取っては珍しい『余所者』だったとしても、この待遇は身に余りすぎだ。真面目にずっと働いている彼らに取って失礼だと詰め寄っても、ナイトメアはただ楽しげに笑うだけ。
 何かと都合がいいからと押し切られた役職に見合うだけの仕事は、頑張って努力はしているものの、当然の事ながらまだ全然追いつけない。
 それでも、そんな私に嫌な顔せずに彼らは突然現れた私を当然のように『上司』として受け入れてくれていた。
 名前に『様』付けで呼ばれる事にも初めはかなり抵抗あったけれど、この間まで続いていた『会合』が終わった今では、そう呼ばれる事にも少しずつ慣れてきていた。

 「会合が終わってやっと落ち着けるはずなのに、早速仕事増やしてごめんなさいね」
 「いえ、仕事進められるのはありがたいです。ありがとうございます」
 「さすが、アリス様ですね。あのナイトメア様に、こんなに早く通常の仕事を再開させて下さるとは」
 「グレイ様だけじゃ、こうはいかないですもんね」
 私が差し出した書類を受け取った彼らは嬉しそうだが、逆に私は申し訳なくなってしまう。  「…本当にどうしようもない上司でごめんなさいね…」
 彼らに渡した書類は、ナイトメアが貯めまくっている仕事のごく一部でしかない。
 彼の執務室には、仕事から逃げ回っているナイトメアのせいで出来た文字通り仕事の書類が常に山となっているのだ。
 そのしわ寄せは、当然部下の彼らに押し寄せてくる。
 申し訳なさにはぁっと溜め息をつくと、何故か彼らはクスクスと楽しげに笑い出した。
 「アリス様がいて下されば、これ以上の書類の山は出来ないと思いますよ」
 「これでも、随分と真面目に仕事して下さるようになりましたしね。一時に比べれば感動ものですよ」
 「……この程度で『感動』とか言われちゃうナイトメアって、本当にもうどうしようもない人よね……」
 「でも、それがナイトメア様ですから」
 本当に、どうしようもない上司で領主だ。
 だけど、そんな彼を塔の人たちは受け入れている。
 街の人たちのようにナイトメアの事を『夢魔』として一方的に畏怖することなく、どこか親しみを込めながらも上司と部下としての距離を保っている彼らの態度を見る度に、どこかほっとしている自分がいた。
 この塔の中は優しくて暖かい。
 あのグレイでさえも『夢魔』の事は怖いと思っている…そう告げられた時はショックだったけれど、彼なりにその怖さを違う方向に昇華している。
 きっと、彼らもそうなのだろう。
 そう思えて嬉しく感じる位には、ナイトメアは私にとって大切な人になっていた。
 元々友達ではあったけれど、今は『上司と部下』で更に『友達以上恋人未満』な微妙な関係だ。
 それも、何故かナイトメアの方から一方的にプロポーズされている。
 きちんと付き合っているわけでもない彼との結婚はまだとても考えられないものの、彼からの好意は私の頑なな心を少しずつ、でも確実に柔らかく解していた。
 この塔に落ちてきた頃とはまるで別人に近い程の変わりように、自分でも時々戸惑うけれど。
 「あ、アリス様。こちらでしたか」
 そんな事を思っていると、不意に後ろから声をかけられた。
 「私に何か用事?」
 「用事と言う程のものでもないのですが、ナイトメア様が休憩に入られるというので、一応お伝えに」
 振り返るとそれだけ告げた部下が、にこりと笑ってぺこりと頭を下げ、またすぐに戻って行った。
 (…それだけの為にわざわざ探してくれたのかしら?)
 この書類だけ終わらせたら休憩にしてあげる…そういう約束で彼に仕事をさせたのはグレイと私だ。
 私もこの書類を届けたらそのまま休憩に入っていいと言われている。
 「ではアリス様も休憩ですね」
 「こちらの仕事は確かに引き継ぎましたので、ゆっくり休んで下さい」
 「ナイトメア様もお待ちになっていると思いますよ」
 「え、あの、ちょっと…」
 戸惑っているうちに、彼らにどんどん背中を押されて部屋から出されてしまった。
 (…本当にこの塔の人たちって…)
 良くも悪くも気を聞かせ過ぎというか、おせっかいというか…でも、そこにあるのは純粋な好意でもあって。
 いつしか彼らに取って私の存在は、『居候の余所者』でも『上司』でもなくて、『ナイトメア様の婚約者』と見なされているようだった。
 自分は偉い!と豪語している割には気が弱くて、いい大人のくせして恋愛経験はまるっきり初心者で不器用すぎるナイトメアを、グレイを筆頭に塔の住民全体が後押ししているのをひしひしと感じてしまう。
 (…これも一種の人徳ってものなのかしら?)
 つい手助けしたくなってしまう人。
 それが、怖れを抱くはずの夢魔であっても、彼がナイトメアだから。
 彼の幸せを願ってくれる人たちがいる。それはとても嬉しいことだった。
 (…だからって、さすがに結婚とかは流されてしちゃいけないと思うのよ)
 そう思いながらも、私の胸の中は暖かい。
 別に、休憩中にまで一緒にいなければいけないわけじゃないけれど、部下たちが気をきかせてくれたわけだし、折角だから一緒にお茶でもしようかなと思える位に。

 

 

◇◇◇

 

 

   コンコンと軽くノックをすると、すぐに中から返事が返された。
 すっかり馴染みになったナイトメアの部屋。
 中を覗き込めば、何故かナイトメアだけでなくグレイまでいた。
 「ああ、アリス。いいところに来た」
 「?どうしたの、ナイトメア。グレイも」
 取りあえずお茶の用意をしてきたのだが、グレイまでいると思わなかったからカップが足りない。
 一度出直してこようかとも思ったが、2人がしきりに私を手招きしているので取りあえず中に入ってみた。
 なにやら2人して応接テーブルの上に何かを広げ熱心に話し合っているようだ。
 急ぎの仕事、というにはナイトメアの表情が妙に楽しげで、つい首を傾げてしまう。
 ナイトメアの机の上には、自室だと言うのにもかかわらず相変わらず書類の山。それなのに、それらに手をつけていないのにグレイもまたどこか楽しげだ。
 テーブルには置けそうもないので仕方なくティーセットを暖炉の上に置いてから、招かれるままに応接テーブルのソファへ腰掛けた。
 「内装工事でも始めるの?」
 広いテーブルの上一面に広げられていたのは、壁紙や絨毯などの見本帳やインテリアカタログの数々でいくつかのレイアウト図面まであった。どこかの部屋のようだ。
 ぱっと目に入っただけでも、どれもどこか柔らかい優しい感じがする内装に見えた。
 (そう言えば、ビバルディも急に部屋の模様替えをしてたわね)
 引越した事でどこか不安定になっていたから気分転換の模様替えなのかと思っていたけれど、もしかしたら引越ししたら模様替えをする決まりがあるのだろうか?
 「ああ。君はどのような色合いを好むかと悩んでいたところでね。やはりこのような話は主人を抜きには進められないだろう」
 「インテリアなども、女の子の好みと俺たちの感覚では違うだろうからな」
 「……何の話?」
 (模様替えするのはナイトメアの部屋じゃないの?)
 でもこの口ぶりからするとどうやら違うらしい。しかも女性の部屋?
 「この塔には女性が少ないから、俺としても今まであまり気にした事はなかったんだが…女性から見て一番外せないものとかこだわりとかあったら遠慮なく言って欲しい」
 「?女性向けの客室でも作るの?」
 大きな会合が終わった後なのに?
 でも、塔の客室は特に男女に関係なく寛げるような空間になっていると思う。
 その客室の1つを自室として与えられている私も、今まで特に女だからと不自由を感じた事はない。
 不思議に思いながらも僅かに首を傾げて考えてみた。
 確かに誰もが使える客室としてではなく、男性用と女性用として作られた部屋では、内装自体が変わるだろう。
 けれど私に意見を求められても困る。
 特に部屋の内装やインテリアなどにこだわりがあるほうじゃないし、女性らしさを求められてもそういう可愛らしさとは、こんな服装をしていてもほど遠い性格だし……


 ふと、元の世界の自分の部屋を思い出した。
 淡い色と落ち着いた木目調の家具で揃えられた、シンプルとは言えやはりどこか乙女チックな内装の部屋。
 少女の部屋によくありがちなぬいぐるみなどは1つもない代わりに、私の部屋の壁側を占めていたのは大きな本棚だった。
 可愛らしいその部屋の雰囲気に馴染まない、巨大な本棚。
 だけど、あの本棚と本だけは執着があった。
 あれだけは自分で主張して置いてもらい、1冊ずつ自分の手で買い集めたものだから。
 けれど、その他のものには執着していない。
 自分の部屋にも関わらず、あまり生活感の感じられない部屋だった。
 このエプロンドレスと同じ。
 姉が望み安心する『良家の娘の部屋』をただ維持していただけ。
 居心地が悪かったわけでは決してない。けれど、心から寛げる場所でもなかった。
 それでも、大切な場所だったはず。
 庇護されている子供の立場で文句など言えるはずもないし、そもそも不満があったわけでもない。
 ただ、時々、とても息苦しく感じることがあった。
 そう感じてしまう事すら申し訳ないと思うのに。
 あの部屋しか、私が本当に自由になる場所はなかったはずなのに…思い出して懐かしさを感じても、帰りたいと素直に思える場所じゃない事が切ない。
 ……空っぽになった私の部屋を、今頃姉さんはどんな思いで見つめているだろう…

 「アリス」
 不意に沈み込んでいく感覚を、ナイトメアが私の名前を呼んだ、たったそれだけの一言でふわりと掬い上げられる。
 深く息を吸い込んで顔を上げると、どこか痛みを堪えたような眼差しが一瞬だけ合い、すぐにどこか困ったような微笑を浮かべたナイトメアがふわりと優しく頭を撫でてくれた。
 勝手に心を覗かれて、勝手に慰めていく。
 どこまでも自分勝手なのに、それだけで呼吸が楽になるなんて。
 悔しいけれど安堵する。
 ナイトメアがいるからここは夢。ここは私が望んだおかしな夢の世界。そして、私が選んだ現実の世界。
 現実に出てきた夢魔が、私に夢と現実の境界を教えてくれる。
 もう、あの部屋に戻る事は2度とない。
 私は、姉さんのいないこの世界に残ったのだから。
 あの部屋も、元の世界も。もう痛みを伴う懐かしさで密かに心の底で思うだけの場所だ。  1度大きく息を吐いて軽く頭を振ると、もう一度そっと頭を撫でていく少し冷たい手。
 「アリス」
 「何?」
 「客室じゃないよ。この塔の中に君の部屋を作りたいんだ」
 「え?」
 (私の、部屋?)
 ナイトメアからの唐突な言葉に一瞬何を言われたのかわからなかった。
 もう、この塔に滞在させてもらってから随分経つ。時間の狂ったこの世界でも、かなりの時が過ぎただろう。
 その間、私はずっとこの塔の客室を自分の部屋として使わせてもらっている。最初のうちこそ慣れない場所だったが、今ではすっかり馴染んでいた。
 (……客室の内装を変えたい、ってこと?)
 いかにも『クローバーの塔』の客室らしい、緑を基調とした色合いとクローバーのモチーフを散りばめられた落ち着いた部屋の内装は結構気に入っていたのだけれど。
 「君があの部屋を気に入ってくれているのは嬉しいのだが、あそこは本来『客室』だ」
 「……客じゃないんだから出て行けって?」
 「違うよ。逆だ」
 さっき不用意に思い出してしまった感傷と混ざり合って思わず不安が沸き上がる。
 反射的に攻撃的になってしまった口調に、けれど穏やかな声が返された。
 とても嬉しげで楽しそうに。
 「君はもう客じゃない。この塔の一員だ。そうだろう?アリス」
 「!」
 『この塔の一員』という言葉が、『この世界の一員』だと。そう聞こえた。


 確かに私はこの世界を選んで残った。
 引越しによって不安定になった時期もあったし、完全にドアの声を振り切れてもいない。  でも、今は私の居場所はここなのだとそう言える。
 家族の夢を見ても、さっきのように元の世界の記憶をふと思い出しても。
 ハートの国の時計塔の、ユリウスの事を思い出しても。
 恋しくは思っても、強く帰りたいとは思えなくなっていた。
 ゆっくりと確実に、この世界に、この国に馴染んでいく。
 そして、その想いが私の居場所を確実のものとしていく。


 「客人に不自由のない設備は整えているつもりだが、やはり客室と自室ではくつろぎ方も違うだろう。君はあまり物を増やすタイプでもなさそうだが、客室ということで無意識に制限していたんじゃないか?」
 どこか心配そうなグレイの表情に、まだどこか呆然としながら首を横に振る。
 そんなことはない、と思う。
 でも、言われてみればそうなのかもしれない。
 いつか元の世界に帰るのだと思っていた頃のまま、持ち帰れないものに執着を持たないように。最初から必要最低限のものしか買ってなかったような気もする。
 そうでなくとも、塔の中で必要なものは大概そろうので買う必要も感じなかった。
 「部屋はいくらでもあるんだから、きちんとした君の部屋を用意したくなったんだよ。君が望む大きな本棚を備え付けるから遠慮なく気に入った本を増やすといい」
 「そんな…本なら塔の書庫でいくらでも借りられるし…」
 「でも、借りたものは返さないといけないだろう?手元に置いて欲しいんだよ。君がこの世界で気に入ったもの、好きになったもの、興味を持ったもの、何でもね」
 「自室は特に個人の色が出るものだからな。借り物じゃない、君だけの部屋を作って欲しいんだ」
 ナイトメアとグレイに交互に言われて、やっとじわじわと実感してくる。
 この世界に残ったとは言え『余所者』じゃなくなったわけじゃない。
 滞在先も仕事も与えられたものだ。
 どんどんこの世界に馴染んで薄れていたけれど、『客人』という意識がどこかに残っていた。
 多分、私だけじゃなくナイトメアやグレイ、この塔の中の人だけでなく他の領土の友人を含めこの世界の人全員に。
 だけど、いいのだろうか。
 (…だけど…また『引越し』が起きたら…また1人だけ弾かれてしまったら…)
 いつも心の底にある不安。
 どんなに求めても望んでも、繋いだと思った瞬間にプチリと切れてしまう、この優しくも不条理で無情の世界。
 (でも…だからこそ……怖い)
 大切な居場所を、こだわりを持って深い愛着を注いだ場所を、人を。また突然失ってしまうかもしれないのが。
 「アリス?」
 沸き上がった不安に急に顔を強ばらせた私に、グレイが訝しげな声をかけてくる。
 しかし、ナイトメアは静かな眼差しでただ頷いた。
 全てを見透かす夢魔の隻眼は、いつだって私を見逃してくれない。
 「そうだな。『引越し』はいずれまた必ず起きる。いつどのような組合せで回るかは世界の気まぐれだから、私にも君がその時どうなるかはわからない」
 「ここから弾かれるか、弾かれないか…?」
 「ああ、残念ながら何の保障も出来ない」
 「…そう…」
 あっさりと私の不安を肯定されて、浮き上がっていた心が沈んでいく。
 (こんな時ばっかり、誤魔化したり隠したりしないなんて)
 私が知りたいと願うことほど煙を吹きかけ、真実を曖昧にしてすぐはぐらかすくせに。時に目を逸らしたい事柄を容赦なく突きつけてくる夢魔。
 優しいのか冷たいのか、彼のことがわからなくなる。
 「なら、やっぱり私の部屋なんて必要ないわ」
 (いずれここからも弾き出されてしまうなら、痕跡なんて残したくない)
 愛着を持てば持つほど別れは辛くなる。だったら最初からそんなもの持ちたくなかった。  ……心なんて許さずに、恋なんて必要ないと、頑ななままでいたかったのに 。
 このままここにいたら無様に泣き出してしまいそうだ。
 気遣わしげなグレイの視線も今は慰めにはならない。
 「違うよ、アリス。だからこそ必要なんだ」
 唇を噛み締めて部屋から出て行こうとした私を、しかしひんやりとした手が掴んで引き止めた。
 「『引越し』は避けられないし、どの場所に君が落ちてしまうかもわからない、これは事実だ。だからこそ、愛着を持って強く戻りたいと願う場所が必要なんだよ」
 「……願ったって戻れないじゃない」
 (だって、私は時計塔に、ユリウスのところに戻れなかった)
 『引越し』当初の何もわからなかった時、不安で仕方なくて、この『引越し』こそが夢だったらどんなによかったかと目覚める度に思っていた。
 不安定になって酷い悪夢に魘されるようになった私を側で支えていてくれたのは、他でもないナイトメア。
 あの時、私がどんなに戻りたかったか誰よりも知っているはずなのに。
 「今でも本気で戻りたいと願うのなら、その手段はある。君だってその方法はもう知っているはずだ」
 「方法って……、あ…」
 そう言いながら少しだけ寂しげに微笑む顔に、ツキンと胸が痛んだ。
 (…『ドア』…私には開けられない、あのドア)
 この塔と森にある、『一番に行きたい場所に連れて行ってくれる』おしゃべりなドア。
 でも、私に一番は決められない。
 いつだって迷っている私には、どこに繋がるかわからないドアをくぐる勇気なんてない。  それに、何より。
 (…今の私は時計塔に戻る気もない)
 ユリウスにはもちろん会いたい。
 でも、それ以上にこの場所に留まりたいと願っている。
 そう変わってしまった自分の心が何より怖い。
 またどこか違う世界に飛ばされて、その世界に馴染んでしまった時に、迷いなく戻りたいと思えるかどうか…断言出来ない私にはドアは怖すぎてくぐれないのに。
 「戻れるよ。アリスが本気で願えば、どこにいても戻ってこられる」
 「………本当に?」
 「ああ。君が一番望む場所へと繋がる道はどの国にも必ずある。それに、たとえ君がどの国どの時間に弾かれたとしても、夢はどこにでも繋がっているから、私がアリスを見失うことはない。必ず会える」
 きっぱりと言い切って、ナイトメアは小さく微笑みながらそっと私の頭を撫でた。
 「もしここから弾かれてしまったとしても、戻る場所がはっきりしていれば不安じゃないだろう?他の国へ旅行へ出かけたのと同じことだ。気が済んだらいつでも帰ってこられる…、いいや。ここに帰ってきて欲しい。この世界での君の『家』に」
 「!?」
 (『引越し』が『旅行』?)
 そんな風に考えたことはなかった。
 『引越し』は理不尽な一方的な別れ…でも、この世界にいる限り避けることの出来ないもの。
 ずっと不安で、またいつ『引越し』が起きるかと怖くてたまらなかった。
 『会合』が終わって、地形が安定して、私の心も安定してきていたけれど、その不安はいつだって胸の奥でくすぶっていて決して消えるようなものじゃなかったから。
 だけど。
 「…だから、『私の部屋』?」
 「ああ。自分の家に自分の部屋があるのはおかしくないだろう?だから安心してアリスの好きなもので満たしてくれ」
 残しておいたら気がかりで仕方ないものが多ければ、むしろ私としては安心だ…そう続けて笑ったナイトメアに、ゆっくりと緊張が解けていく。
 『引越し』が『旅行』のようなもの…さすがにナイトメアのようにそこまで気楽には考えられないけれど、ずっと胸の奥で感じていた恐怖がその一言で揺らいだのは確かだった。
 クローバーの塔は、もう私にとって『滞在地』じゃなくてこの世界の私の『家』。
 いつでも、どこにいても無条件で受け入れられて戻ってこられる場所。
 また『引越し』でどこかへ1人だけ飛ばされてしまったとしても、それは僅かな間だけで帰ってこられる…そう断言してもらったことで、重さがふっと軽くなった。
 ドアを開けて迷いなく戻ってこられるかは、結局は私自身の問題に変わりない。
 それでも、自分だけの『部屋』があるのならば、迷っていても1つの明確な目印にはなる。  何度リセットしても、間違いなく落ち着ける場所として。出発点にも終着点にもなれる場所。
 「あなたは…私を甘やかしすぎるわ、ナイトメア」 
  (いつでも、こんな風に逃げ道を用意してくれるなんて)
 「そうでもないさ。君の為というより、これはむしろ私の我儘だからな」
 じわじわと広がっていく何ともいえぬ気恥ずかしさを誤魔化すように、わざと拗ねたような声を出すと、ナイトメアが苦笑した。
 「我儘?」
 「私からアリスを手放す気は全くないんだよ。だから安心して覚悟しててくれ」
 「安心して覚悟しろって、相変わらずあなたの論理はめちゃくちゃね」
 ナイトメアの言い様に呆れた私に、何故かグレイが私たちに向かって呆れた溜息をついた。
 「全く。いつ起こるかわからない『引越し』でお互いに離れるのが不安だと言うのなら、早いところ結婚して下さればいいじゃありませんか。そうなればアリスが飛ばされることもないでしょうし」
 「え?そういうものなの?」
 「俺はアリス以外の余所者を知らないから断言はできないんだが、多分な」
 (そういうことなら、とりあえず結婚するのもアリかしら?)
 何度も聞いたナイトメアからのプロポーズの理由より、グレイの説明に思わず結婚に向けてグラリと心がよろめきかけてしまった。危ない危ない。
 そんな打算でナイトメアと結婚なんてしちゃいけないし、したくはない。
 「打算でも利用でも何でもいいから結婚してくれればいいのに。全く、君は連れないな」  踏みとどまった私の心を読んだナイトメアがわざとらしく溜め息をついてみせるのに、ツンッと顔を背けてやった。
 そんな私たちの様子を微笑ましく見ていたグレイが、突然何かをひらめいたらしくポンッと手を打った。
 「そうだ。アリスの部屋ですが、いっそのことナイトメア様の部屋を改装してお2人の部屋とされたらいかがです?どのみち結婚されたら夫婦一緒の部屋になるのですし」
 「ああ、それでもいいな」
 「ええっ!?それはよくないわよ!まだ婚約だってしてないのに同じ部屋で暮らすなんて」  
 さも名案とばかりにとんでもないことを言い出したグレイに慌てて待ったをかけるが、彼は不思議そうに私とナイトメアを見比べてから首を傾げた。
 「婚約するのも結婚するのも同じようなものだろう?今では塔中の者は既に君のことを近い将来の奥方様だと認識している」
 「そ、それは…」
 確かに、周知の事実、と言うやつかもしれない。
 でも、噂が当人たちの間で現実味を帯びてきたのはつい最近のことだったりする。
 もう、完全な嘘とも言えないが、それでもすぐに状況が変わるようなものでもない。
 少なくとも、私にはまだ結婚するつもりはないし。ナイトメアも、まだ吐血しなくなる程の健康体になるまでは程遠い。
 でも、私たちの間の密かな約束事などグレイは知るはずもない。
 「アリスもナイトメア様の部屋でよく過ごしているようだし、問題はないと思うんだが…、女性は段階を踏みたがるものだと言うからな。なら、とりあえず今から正式に婚約していただくとして、部屋の改装終了と同時に結婚式、という流れでいいだろうか」
 「いやいや、よくないから」
 (ああ、グレイにまたスイッチが入っちゃった…)
 万事解決!とばかりにキラキラと瞳を輝かせて話を進めようとするグレイを何とかして止めないと、このままじゃ暴走して部屋どころか式場や結婚式の段取りまで全て進められてしまう。
 内心で焦る私とは裏腹に、ナイトメアは楽しげに笑っているだけだ。
 もしかしたら、私がこのまま流されてしまうことを期待しているのかもしれない。
 (ズルイ人。私にはあと一歩の押しが足りないくせに)
 優しいけれど臆病で、中々本心を見せてくれないナイトメアの言動に振り回されっぱなしなのは少し悔しいから、ちょっとくらい意趣返ししてもいいだろう。
 「たまに過ごすならともかく、自室にまで仕事が山積みになってる部屋で寛げるとは思わないわ」
 「そ、そうだろう!アリスもそう言ってるんだ、これからは私の部屋にまで書類の山を持ち込むんじゃないぞ、グレイ!」
 「それは、ナイトメア様が執務室できちんと仕事を終わらせてくれないからじゃないですか」
 「持ち込まなくてもいいくらいにちゃんと仕事できないなら一緒の部屋で暮らすなんて到底無理ね。それとも、自室でまでつきっきりで仕事の監視されたいの?」
 「うっ…あ、あーそうだ。君は1人になれる時間と場所を大事にするだろう!?ならば、完全に私と一緒の部屋とするよりは、隣続きに部屋を作った方がいいだろう!内側からも出入りできるドアをつけて。そうだ、そうしようじゃないか!」
 (逃げたわね)
 このままなし崩しに同じ部屋にしてしまうと、私に執務時間外にまで強制的に仕事をさせられることを悟ったナイトメアが苦し紛れに代替案を出してきた。
 ここで、『なら仕事も頑張る』とならないあたりは情けないけれど、咄嗟に出てきただろうその提案には心惹かれた。
 完全に同室ではないけれど、限りなく一緒に近い部屋。
 今の私たちの関係と似たような居心地のいい距離感に納得する。
 (そのうち、その仕切りのドアさえも曖昧になっていきそうだけど)
 引越しは完了して、もう境目が曖昧になることはない。それでも、時と共に曖昧になって融けて交わるものもある。
 「確かに、ナイトメア様の部屋は公私混合が激しいので彼女が1人で落ち着ける場所と言うのは必要かもしれませんね。では、アリスもこの案でいいだろうか?」
 「そう、ね。それなら」
 グレイからの確認に躊躇いながらも頷くと、2人が嬉しそうに顔を輝かせた 。
 「では、俺は早速業者の手配を整えますので、インテリア関係はお2人におまかせしますよ」
 「ああ、ここはセンスのいい私に任せておけ!」
 「…その乙女チックなピンク系とフリルの内装は絶対お断りよ、ナイトメア」
 「ええっ!?女性の部屋と言ったらピンクではないのか!?」
 「私に乙女チック成分を求めないでって何度も言ってるじゃない!私のキャラじゃないわよ」
 「そ、そうなのか!?じゃあ、こっちの花柄模様とかはどうだろう。アリスに似合うと思うんだが…。それか、この森をイメージした内装とかはどうだ?」
 「…えっと…可愛いとは思うけど、私はどちらかと言えばシンプルなのが好きだから、ちょっとイメージと違うかな」
 部屋を出かけたはずのグレイが慌てて薦めてくれた内装見本は、ナイトメアとはまた違った方向でとてもメルヘンチックなものだった。
 グレイはこう見えて可愛い小動物好きだから、というのはわかるけれど、花や小動物満載のまるでおとぎ話の一場面のような部屋は謹んで遠慮したい。
 にっこり笑ってダメだしした私にナイトメアもグレイもショックを受けたようだけれど、当人よりも張り切っている2人にこのまま任せていたら、とんでもなく『女の子全開』な部屋になってしまいそうだ。
 「いきなりの事でまだイメージがわかないの。だから1つずつ決めさせてくれる?まずは…大きな本棚から選ぶから」
 だったら、自分から積極的にいかなくては。
 たくさんあるカタログを1つ手に取ってそう願った私に、だったらこれはどうだ?いやいやこっちは…などとデザイン案を引っ掻き回していた2人がパッと顔を合わせ、同時に嬉しそうに破顔した。

 

 

◇◇◇

 

 

 『私の部屋』
 このクローバーの塔での、この世界での、私の確たる居場所。
 『お客』ではなく『家族』として、私をこの世界に留める拠点。
 また『引越し』に巻き込まれても、戻ってくる為の目印。


 (だけどね、ナイトメア)
 自分好みに作り上げた部屋より、大きな書棚に一杯に満たしたたくさんの本より。
 私を『家族』の一員して受け入れてくれているグレイや、塔で働くたくさんの部下たちよりも。
 『残しておいたら気がかりで仕方ないもの』が何より真っ直ぐ戻って来られる道標となるのならば。
 (一番手放せないのは、きっとあなただわ)
 どこにいても、たとえまた違う国に飛ばされたとしても、探し出して必ず側にいてくれる。迎えに来てくれると断言してくれた。
 (目を離したら心配で気になって仕方ないもの)
 私も側にいたいと思う。
 だから、いつか来る『引越し』は避けられないとしても、必要以上に怯えなくてもいいように。その時に迷う事がないように、今からもっと強い絆を結んでおきたい。
 好きになればなるほど別れの痛みは強いものになるけれど、それだけ元の場所に引き戻される強い力にもなると、今は信じていたいから。
 (私の居場所は…あなたがいる場所よ。ナイトメア)
 まだちゃんとした『恋人』とも言えない関係。
 でも、私の中では、そう遠くない未来にこの塔で彼と名実共の『家族』として生きていく道筋が見えている。
 (でも、そんなすぐに結婚はしてあげないけどね)
 壁一枚隔てた隣同士の部屋のように、もう少しだけこのくすぐったくて温かな絶妙な位置で、やっと自分の中で認める事が出来たこの恋心を育てていきたいから。

 ーーーコンコン、コンッ

 部屋の内扉に響くノックの音に、私は読んでいた本を本棚に戻すと相手を確認することもなく扉を開いた。
 私の『部屋』の内扉をノックする事が出来る人は、1人しかいないから。
 「お帰りなさい、ナイトメア」
 開いた扉からひょいっと覗かせた顔が、私を認めた瞬間に満面の笑みを浮かべたーーー

 

 

 


 

♪『客室』じゃなくて『アリスの部屋』。個人的にはクローバーの塔の客室は好きなのですが、自分だけの部屋を作ってもらえたら本当の一員になったような気がして嬉しいだろうなぁ、って思いまして。
ナイトメアの部屋と続いているのは個人的希望です♪
どんなに好きな相手でも、1人になれる場所や時間って必要だと思うんですよ。
アリスだったらどんな内装にするのかなぁ。私的には何となく素朴なイングリッシュアンティークなイメージです。

それから、少しだけ途中にダイヤ前提のイメージも入れてみました。
どの国に飛ばされてどんな経験をしても、アリスには最終的にちゃんとクローバーの国のナイトメアの元に帰ってきて欲しいなって思います。
帰りを必ず待っててくれる人と戻れる場所があるって、とても幸せなことだから。

…今年は引越し出来るかなぁ。部屋の思い切った模様替えがしたいです。