stray sheep 〜前編〜


 

 

 手のひらの上には一通の手紙。
 深緑の封蜜にはNの飾り文字。
 丁寧で奇麗な筆跡の差出人は、当然ナイトメア。
 暑い真夏の遊園地に真冬のクローバーの塔から届けられたのは、クリスマスパーティーへの招待状。
 

 時間の狂ったこの世界は、今は季節さえ狂っている。
 くるくるとめまぐるしく移り変わる季節と共に、私の心もくるくると回る。
 滞在地である遊園地の仲間たちと夏を楽しみながら、他の場所を訪れ、今までなかった季節を楽しむ。
 どの季節もそれぞれ楽しいが、それでもつい足しげく通ってしまうのは白銀に輝く凍てつく冬だった。

 夢から出てきた夢魔が塔主として住まう冬の中心。
 ……ただでさえ病弱で、どんなに体調が悪く吐血を繰り返しても、断固として病院に行くことを拒否して薬も飲まない。そんな情けなさ全開のナイトメアがいる場所がよりによって真冬になってしまうなんて、これはもう日頃の罰が当たったとしか思えない。
 寒いからといつも以上に塔の中に引きこもり、寒いからといつも以上に仕事もサボる。
 本当に、もうどうしようもないダメなヘタレ男だ。
 それなのに、どうにも放っておけない。
 突然のあまりにも理不尽な『引越』のせいで、ハートの国からクローバーの国に強制的に移ってしまった。
 同時にナイトメアが夢の中から表に出てきたのだ。
 表に出てきたせいか、夢の中に行かせないようにグレイに監視されているせいか…それが1番あり得る…引越直後はそれなりに私の夢の中にも現れたが、最近ではめっきり夢の中で会う事はなくなっていた。
 だから、多分それで気になって会いに行ってしまうんだと思う。
 自分から会いに行けるようになったから…今までは夢の中とは言えナイトメアの方から会いに来てくれていたのに、今は会いに来てくれないから。
 会えないと気になって仕方がないのだ……ちょっと目を離した隙に倒れていそうで。そのまま……2度と会えなくなってしまいそうで。
 あれだけ冗談のように吐血しているのだから、それこそ冗談のようにぽっくり死んでしまっても不思議じゃない。
 塔には補佐のグレイもいるし、他にも大勢の人たちがナイトメアの世話をしている。だから、そんな最悪な事態は早々起らないとわかっているけれど、それでもどうしても気になってしまって。
 
 気になるのはそれだけ?
 つい会いに行ってしまうのは、本当にそれだけの理由?
 
 繰り返し問われる自分の中の内なる声。
 それは、頑なに拒んでいたはずの感情。

 『最初から曖昧で形のないものならば、いつまでも決して壊れはしないよ』

 そう言って微笑んだのは、曖昧なものの象徴でもある、常に顔色の悪い現実に出てきた夢魔。
 曖昧で特定の形を持たないのにその存在は主張する、彼が好む甘くて苦い煙管の煙のように、曖昧なものは私の中にするりと入り込んで図々しく居座っているのだ。
 気付いた時には、もう決して分離など出来ないくらいに。それが妙に悔しい。
 形のある確かなものを欲しがる一方で、いずれ壊れてしまうものならば最初から形のないもののままでいて欲しいと望んでいる。
 ずるい自分……けれど、正直な思いだ。
 会う程に私の心は搦めとられていくとわかっているのに、それでも会いに行くのを止められない。
 このままいけば、いずれ近いうちに厄介な事になるのを感じながらも、回避しないのならばそれは自業自得でしかないというのに。

 

 「ちゃんと仕事はしていたのかしら」
 丁寧な筆跡で書かれた自分の名前と彼のサインを見て、無意識の内に笑みが浮かぶ。
 凍てついた白銀の世界を暖かく色鮮やかに彩る、クリスマスのイルミネーション。
 大きなクリスマスツリーを飾って、サンタクロースからプレゼントを貰えるようにと笑っちゃう程単純で子供っぽい願いの為に、大嫌いな仕事を文字通り泣く泣く頑張っていたナイトメアの姿を思い出して、更に笑みが深くなる。
 時間の概念が狂っているこの世界で、正式な日付は意味を持たない。冬では望めばいつでもその日がクリスマスだ。
 ずっと楽しみにしていたクリスマスパーティーをやっと開けるくらいには、仕事が片付けられたのかもしれない。
 「頑張ったいい子には、ご褒美をあげないとね」
 机の引き出しに丁寧に招待状をしまい、代わりに取り出したのは奇麗にラッピングされた箱だった。
 サンタクロースを信じているナイトメアの為に、グレイと一緒に悩んで選んだ彼へのプレゼント。
 私と一緒にクリスマスを楽しみたいと言ってくれた、そのお礼も込めて。
 「喜んでくれるかな?」
 真夏の部屋で冬の世界を思っても、胸に広がるのは暖かさだけ。
 クリスマスパーティーの招待状に、私も実は結構浮かれているのかもしれない。
 彼と一緒に過ごす、この世界で初めてのクリスマスを楽しみにしていたのは、私もだから。

 

◇◇◇◇◇

 

 「今から出かけるのか?アリス」
 「ゴーランド」
 容赦なく照りつける真夏の日差しにじんわりと汗が浮かんでくる。
 夏の遊園地にも慣れたとはいえ、やはり暑いものは暑い。暑さに弱いボリス程じゃないけれど、涼しい室内から外へ出ると身体が暑さに馴染むまではやはり少し辛いものだ。
 遊園地のオーナーであるゴーランドは、けれど真夏の暑さをものともせずにとてもオーナーとは思えぬラフな姿で片手を振りながら近づいてきた。
 「クリスマスパーティーだっけか?オレも呼んでくれりゃあ、クリスマスに相応しい荘厳かつ壮麗な曲をプレゼントしてやるってのに」
 心底残念がっているゴーランドには悪いが、それだけは断固としてお断りさせていただく。
 彼の自慢のバイオリンは、今は夏だからとウクレレに変わっているが、演奏の技術そのものは全く変わっていないのだから。
 …………というか。最早演奏なんて呼べない代物だし、あれは………
 ゴーランドご自慢の演奏と歌は、下手な銃弾より余程殺傷能力がある。遊園地は彼の人柄を受けてみんな陽気だけれど、いつ恐ろしい演奏爆弾が起るのかドキドキして暮らしているのも事実だ。
 これさえなければ、本当にいい人なんだけどなぁ…
 「そうだ。折角のパーティーならこれ持って行ってくれ。差し入れだってな」
 そう言いながらゴーランドが差し出したのは、アイスクリームで出来たケーキだった。
 「………私、これから寒い冬に行くんだけど?」
 「ああ。でもよ、あったかい部屋で冷たいアイスってのも美味いんだぜ」
 「まぁ………それはあるかも」
 何も寒い外で食べるわけじゃないからいいのか…?
 ユリウス辺りに呆れられるかもしれないけど、ああ見えてユリウスは意外と甘いもの好きだし。
 ゴーランドは手際良く、溶けないようにとクーラーボックスに入れて渡してくれた。
 「ありがとう、ゴーランド」
 「いいってことよ。クローバーの塔の連中には世話になってることだしな」
 「?そうだったかしら?」
 思いもよらない言葉に思わず首を傾げると、ゴーランドが眼鏡の奥の目を細めてくしゃりと頭を撫でてくる。
 「……アンタがここ以外にも居場所を望む事が出来るようになったのは嬉しいことだが…少し寂しいもんだな。まるで父親の心境だぜ」
 「え?」
 「アンタはオレの大事な友人で可愛い娘だよ。だからアリスがどこにいても、離れていても、いつだってアンタが笑っていられるように祈ってる」
 ゆっくり髪を撫でていく大きな手は、遠い昔に微かに覚えのある父親と同じものに思えた。
 「ゴーランド…?」
 なんでだろう。
 こうやって彼に娘扱いされて甘やかされるのは今に始まった事じゃない。頭を撫でてもらうのだって。
 少し年が離れているせいもあるけれど、本当の父親に望めなかった自分の理想の父親像を、こっそりとゴーランドに当てはめていたこともある。
 だから、こんな風に娘扱いされて頭を撫でられても、普段ならくすぐったくも安心出来るのに。
 なんでこんなに…不安なの?
 また、置いていかれるの?私を置いていってしまうの?
 不意に目の前の風景がチカチカと入れ替わる。
 賑やかな遊園地と、静かな森。
 …………引越で消えてしまったのは、どこだった?
 迷子になってしまったのは…弾かれてしまったのは誰?
 頭がぼうっとしてくる。
 暑くてくらくらするのに…寒いのは何故…?
 「アリス!」
 急に強く名前を呼ばれてハッと意識を取り戻すと、すぐ目の前に心配そうな顔をしたゴーランドが私を覗き込んでいた。
 「大丈夫か?顔色悪いぞ」
 「……………え………あ………」

 ーーー私、今何を考えていた?

 ジョーカーの世界になってから、時々こんな風に急に意識が曖昧になる事があった。
 何を考えていたのか、何に捕われていたのか…忘れちゃいけないはずの事、曖昧にしていい事じゃないのに、指の隙間をすり抜けていった意識は既にどこにもない。
 (…………これもナイトメアの仕業なのかしら?)
 こんな風に意識が不安定になるのは、ハートの国に連れ込まれた直後に似ているような気がする。
 あの時は、あまりにも自分の中の常識とこの世界の常識がかけ離れていて、混乱してた私を取りあえず落ち着けるために、ナイトメアが『これは夢』だと暗示をかけた。
 この世界に馴染めば馴染む程歪んでくる現実との違和感を感じるたびに、彼は夢の中で何度も何度も『これは夢だよ』と囁いた。
 今では、この世界もまた『現実』だとわかっている。
 元の世界を捨てこの世界で生きる決心をした時から、私はこの『夢のような現実』を受け入れているーーはずだ。
 この世界は夢じゃない…夢じゃないはずなのに、夢みたいな事が次々起きるから。馴染んだと思うたびにまた信じられない常識に振り回されるから……心の底で、あたしはまだこの世界を『現実』だと信じきれていない。
 だから、ドアの森に、ドアの階段に、私は呼ばれ引き寄せられてしまうのだろう。
 クローバーの国になって表に出てきたナイトメアとは最近はなかなか夢の中では会えないけれど、私が酷く不安定に迷っている時には夢に出てきてくれる。
 ドアの階段で、姿はなくとも声だけで帰り道を導いてもくれた。
 この世界を最初に『夢』だと思い込ませた嘘つきな夢魔は、私をこの不思議の世界に引き込んだ白ウサギの共犯者。
 いつだって、彼は私を惑わせながらも最終的に守り導いてくれる。
 優しい嘘で目隠しをして。
 (……もしこれがナイトメアの仕業なら…今度は私から何を隠しているっていうの……?)
 「おい、アリス。本当に大丈夫か?」
 「え?……………ああ、大丈夫よ。ちょっと暑さでくらっときちゃったのかも。今は平気だから心配しないで」
 「だがなぁ…出かけるのはやめて部屋で休んだ方がよくないか?」
 「大丈夫だってば」
 心配してくれるゴーランドの気持ちは嬉しいけれど、くらっとしたのは一瞬で今は何ともない。それに、出かけるのをやめるなんて事は出来ない。
 だって、きっと、待ちわびてくれている。
 ポケットの中にこっそり忍ばせている招待状から、早くおいでと嬉しげに呼ぶ声が聞こえてくるようなのだから。
 早く行きたい……早く会いたい。
 「待ってるから」
 思わずぽろっと零れた声を耳にして、ゴーランドが微かに目を見開いた後、ゆっくりと苦笑した。
 「……そうか、わかった。ゆっくり楽しんでこいよ」
 「うん。ありがとう、ゴーランド」
 「しかし……アンタがアイツを選ぶとは意外ってゆーか、ある意味当然っつーか……実は結構似た者同士っつーか」
 うんうん、としみじみ頷きながらのゴーランドの言葉に、到底聞き逃せないものがあった。
 「ええっ冗談でしょう?私があんな引きこもりで我が侭なダメ男と似た者同士だなんて!」
 それだけはあり得ない!
 反射的に反論すると、何故かゴーランドがニヤニヤ笑っていた。
 「ふーん。オレはそれが『誰』とは言ってないんだが?」
 「っ…〜〜〜〜〜っっ」
 「あっはっはっはっ!照れるなよ!」
 してやったりと全開の笑顔を浮かべて、ゴーランドがまた私の頭をくしゃくしゃと撫でていく。
 「正反対だから似た者同士ってことだ。いいじゃねぇか、お互いの足りないとこを埋め合えるなら……アンタ、少し見ない間にいい顔するようになったぜ」
 「〜〜〜っ……私は別にそんなんじゃっ」
 「夢魔を怖れずに無防備に惹かれるなんて、そんな酔狂なのはこの世界じゃ心を持っているアンタくらいしかいないだろうしな。だからこそちと心配だが……」
 「……え?」
 「すみませーん。アイスくださーい」
 さらりと気になる事を言われたような気がする。でも、その事を問いかけようとするよりも、遊園地で遊ぶお客さんがゴーランドのアイスを求めて声をかけたのが早かった。
 「へい、らっしゃい!定番から変わり種まで色々あるぜぃ!」
 「あ、あの…ゴーランド?」
 一瞬にして遊園地のオーナー……と言うより、どう見てもアイス売りの陽気なおっちゃんに切り替わったゴーランドは、声をかけた私に向かってヒラヒラと手を振るとアイスの説明に熱中してしまった。

 

◇◇◇◇◇

 

 (……夢魔を怖れずに惹かれるのは心を持っているものだけ……?)
 それは一体どういう事だろう。

 この時間の狂った不思議の世界で、命が軽い事に次いで私がどうしても納得出来ないのが、皆が皆『心がない』と言いきる事だ。
 この世界の住人の胸には、心臓の代わりに時計が埋もれている。
 だから心を持たないのだと、心の中は空っぽだと言うのだ。
 そんな自分の空虚さを暴かれたい人はいない。だからこそ人は、心の声を聞き夢を覗く夢魔を怖れる。
 
 (夢魔は悪魔よりも恐ろしいものだよ)

 かつて、夢の中で囁かれた声を思い出した。
 いつかの夢。
 まだ、ナイトメアに出会って間もない時だった気がする。
 ずかずかと人の心に入り込んでは要領を得ない説明ばかりでむしろ更に混乱させ、それなのに悪びれもせず夢に現れた夢魔。
 最初から全てを見透かす灰銀の隻眼と、耳に滑り込んでくる抗えない夢魔の囁きに、彼を神秘的に感じていた事もあった……あの頃はまだ。
 そして……
 (……確かに、『怖い』って…思った事もあったわ)
 得体のしれない不気味さをナイトメアに感じていた事も確かにあった。今になっては忘れていたけれど。
 自分の理解を超える事をしてのける存在を、人は必然的に、羨み・憧れ・畏怖し・嫌悪する。
 でも、夢から出てきたナイトメアを怖いとは思わない。むしろ夢から覚めた現実の姿が情けなさすぎて、怖れるどころか奇妙な愛着が出来てしまった。
 子供っぽくて我が侭で見栄っ張りで、仕事キライで病院キライで薬もキライなどうしようもない人だけど。すぐに人の心を覗き込んで夢の中にまで現れるけれど。
 私の心を誰よりも知っていて守ってくれているのは、ナイトメアだ。
 読まれたくない、触れて欲しくない、暴かれたくない……そんな心も確かにある。見せたくない、見られたくない、隠したい…そんな思いも。
 この世界の人たちが口々に言うように自分の心が空っぽだとは思わないけれど、心の中に詰まっているものは奇麗なものばかりじゃい。むしろ、醜いものが多いと思う。卑屈でネクラでうじうじ悩む性格なのだから当たり前だ。
 それでも、彼の前では無防備になってしまう自分がいる事は確かだった。ナイトメアの前では何も隠さなくていい、偽らないでいられる。
 醜い心に触れてもなお、ナイトメアは私を拒絶せすに受け入れてくれたから。
 心を読まれて怖れるより、安心する。
 情けないけれど、誰よりも優しい人に触れられて、守られて。
 だからこそ、どうして『夢魔』をそこまで怖れるのか、それがわからない。
 どうして彼に惹かれないでいられるのか、その方が不思議だ。
 そう思うのは、私だけなのだろうか?
 この世界の人に心がないなんて私は思わない。心が空っぽな人なんてどこにもいないはずなのに。