夢魔の見る悪夢


 

 

 苦しい。
 息が出来ない。
 自らが創り出した幻想に絡み取られて、身動きすら出来ずに、ただもがく。
 
 ーーーー助けて

 どんなに力の限り叫んだとしても。
 声を紡ぎ出す事すら出来ず心の中で必死で願ったとしても。
 悪夢の源は自分の心。
 どんなに腕の立つ強い人でも、人の夢の中まではどうやっても入ってくる事は出来ない。
 
 ーーーー助けて

 どんなに手を伸ばしても。
 どんなに求めても。
 その手を掴んで助けてくれる者はいない。
 誰も。

 ーーーー助けて

 狂気にも似た暗い闇の底に沈み込んでいく。
 全ての境界が曖昧になって、闇の中に溶けていく。
 怖くて怖くて。
 何が怖いのかももうわからないのに。
 それでも、救われたいと本能が求めている。
 許されないと、許さないと。そう決めているにも関わらず、それでも楽になりたいと。
 その願いが、更に闇を深くしていく。
 僅かな光すら飲み込むかのように。
 深く重い、悪夢。
 ただ独り…………絡み取られて墜ちていく……

 

 (ーーーーーおいで)

 

 けれど。
 絶望に塗りつぶされる手前で、いつも私を掬い上げてくれる光がある。
 決して眩いものではない、無数の色彩を帯びた小さな光の欠片が囁くように瞬いて、ふわりと包み込んでくれるのだ。
 この世界でただ1人。
 『悪夢』を体現する者の声が、私を悪夢から救い出してくれる。
 

 

 (ーーーー大丈夫。夢は君を傷つけたりはしないよ)

 

 柔らかく耳に滑り込んでくる囁きにやっと息を取り戻し、ゆっくりと身体の力を抜き、その声に身を委ねる。
 そうだ。
 彼が統べる夢ならば、私を傷つけたりはしない。
 深い安堵と共に………静かに事実を刻み込まれた。
 
 悪夢を生み出すのは、自分自身。
 傷つけているのは、私自身に他ならないのだと……

 

 (ーーーー……それでも、夢は、私は君を傷つけはしない。悪夢を生み出す君ごと包み込んで、守ってあげるよ)

 

 優しい誘惑の囁きに促されるように、再びゆっくりと墜ちていく。
 見えない腕が、ふんわりと墜ちていく私を抱きとめてくれたのを微かに感じ取りながら、無数の貴石のきらめきのような光の中に意識が溶けていった…ーーー

 

◇◇◇◇◇

 

 ゆっくりと意識が眠りの淵から浮かび上がってくる。
 ああ、もうすぐ目が覚めるんだな…と無意識の中で意識する短い時間。
 目を開けば夢は消える。
 そのまま目を閉じていれば夢は続く。
 今の自分はどちらを望んでいるのだろうか。
 そんな事をうつらうつらと思いながら、身体を包み込む得もしれぬ暖かさの心地好さに大きく息を吸い込んだ。
 起きる直前の体温は少し冷えていて無意識に暖かいものに縋り付くものだが、今日はいつもと違う気がする。
 身体の芯からぽかぽかと暖かい。あまりの心地好さに、ずっとこのまま微睡んでいたいと思う程に、私を包み込む毛布は柔らかくしっかりと包み込んでいてくれた。
 (………さすがナイトメアが絶賛する毛布だわ……)
 いつもと違う感じがするのは、きっと新調した毛布のせいなのだろう。
 ナイトメアがいつもどこからか出してはいそいそと幸せそうに包まっている毛布と同じ物だ。昨日、得意げにどういうわけかプレゼントしてくれた。
 プレゼントの中身が毛布という事にも、彼のそのあまりの蓑虫っぷりにも呆れて見ていたものだが、確かにこのふんわりとした心地好さに包まれていると無条件に安心する。悔しい事に。
 目覚める前のほんの僅かな時間だけ。
 何にも捕われずただ無防備に、この暖かさに擦り寄って甘える。夢と現実の狭間で、優しさをじっくりと染み込ませるかのように。
 短い至福の時を惜しむかのように、深く息を吸い込んでゆっくりと吐き出す。
 (…………気持ちいい……)
 柔らかな毛布にすりすりと頬を擦り寄せると、微かな笑みの気配と共にふわりと頭を撫でられた。
 (……………………姉さん…?)
 微睡む私にこんな風に優しく髪を撫でてくれるのは姉さんしかいない。くすぐったくてどこか照れくさくて、でも嬉しくて。そして、どこか懐かしい。
 それなのに。胸の奥で決して忘れる事のない小さな針が存在を主張する。でも、まだこのまま目を閉じたままでいたい。
 目を開けば夢は消える。
 そのまま目を閉じていれば夢は続く。
 「……やれやれ。私は君の姉さんではないのだがね」
 けれど。夢はどうやら続きを見せてはくれないらしかった。
 微睡んでいた意識が耳に届いた声に反応して急速に覚醒してくる。
 (………………え…?姉さんじゃない…?)
 耳に馴染んだ柔らかな声。この居心地の良い毛布と同じように無条件で包み込んで守ってくれる声と気配。
 だけど、今聞こえた声は姉さんの柔らかなソプラノじゃない。耳の奥に滑り込んでくる低く滑らかなテノール。
 (……………声だけは無駄に良いのよね………)
 「………声だけ、とか。寝ぼけてるのに酷くないか、おい……」
 (…………顔もいいけど。顔色はともかく……)
 「………………起きたのならそろそろ目を開けてくれないか。全く、寝ぼけている時の君が一番素直なはずなんだがな……」
 小さな溜め息まじりにぼやくよく知っている声は、何故か頭のすぐ上から聞こえてくる。声と共に再び髪を優しく撫でられる感触と共に。
 (…素直じゃなくて悪かったわね…)
 心を読まれて反射的に突っかかるのもいつもの事だ。
 でも、今はまだギリギリ夢の中。
 ーーーー………気持ちいい。
 守られ甘やかされている暖かな空間で安心しきって、無意識にまた柔らかな毛布にすりすりと頬を擦り寄せた。
 「ア、アリス……?」
 すると何故か、声と共に暖かな毛布がぴくりと動揺した。
 (…………………あれ……?毛布……………)
 頬を擦り寄せた毛布から微かに時計の音が聞こえて、一気に眠気が吹っ飛んだ。でも、これはまだ夢だと思いたい。さっきとはまた違う意味で目を開けるのを躊躇う。
 それでもそーっと片目だけ微かに開いてみれば、目の前に広がるのは毛布でもシーツでもない、見慣れた白いフリルのついたドレスシャツ。
 何より心地好くて暖かかったのは、極上の毛布のせいじゃなく、彼の体温だったのだ。
 (〜〜〜〜なっ…何で私ってば、ナイトメアに抱きついて寝てたのよ……っっ)
 「わ、私が勝手に触れてたわけじゃないぞ!抱きついてきたのは君の方からだったんだからな」
 「覚えてないもの。寝ぼけてたのよっ!寝ぼけて放さなかったのなら、起こしてくれればよかったじゃない!」
 心の声に反応したナイトメアに思わず反論してがばっと起き上がる。真っ赤になった顔はもうどうしようもない。
 抱きついていた身体が離れて、すうっと部屋の冷えた空気が心地好かった夢の余韻を瞬時にぬぐい去っていった。

 ナイトメアと一緒に寝た事は何度もある。
 ーーーこう言うと普通は勘違いされてしまうのだけれど、本当にただ何もなく一緒に『寝る』だけなのだ。
 普通に一緒のベッドで寝るだけの事はよくある事だ。
 夜中にふと目を覚ました時に、いつの間にか隣で彼が眠っているのを見つけるのもよくある事。
 文字通り、添い寝。
 ………お互いにそれなりの好意を持っていて、その意思表示もしていて、キスまではした事がある。それなのに、あまりに健全すぎる状態なのもなんかこう釈然としなかったりする気分の時もあるけれど、無茶をして最中に吐血されたり死なれたりするくらいだったら、おとなしく添い寝してくれてた方が色々な面で安心だ。
 だから、寝ぼけた姿や寝顔を見られていた事に対する恥ずかしさはそんなにない。全くないわけじゃないけれど。
 ただ、今日のはあまりにもいつもと違っていたから。
 寝ぼけていたにも程がある。
 寝ぼけて抱きついた事は前にもあるけれど、抱きついたまま寝てしまっていたなんて。
 信じられない。あり得ない。

 ナイトメア=ゴッドシャルク。
 彼はその名前通り、悪夢を体現する者・夢を統べる者とか呼ばれている夢魔だ。
 けれど、ナイトメアは私の悪夢を拭ってくれる。
 彼が夢の中に現れれば悪夢は消える。目覚めた時にほんの僅かな余韻だけ残して、内容は覚えていないように。
 寝ぼけて抱きついていたのなら、きっとまた何か悪い夢を見ていたのだろう。今はその夢の欠片さえ思い出せないけれど。
 ナイトメアと一緒に眠った最初のきっかけも、悪夢から守ってくれると言う何よりも堪え難い誘惑に惹かれたからだった。
 息をする事も忘れる程の悪夢を拭ってくれるのはありがたいし感謝もしている、けれど。
 でも。だからといって、寝ぼけて抱きついたままの私をそのまま抱きしめて一緒になって寝てなくてもいいと思う。
 しかも、何だか。珍しくナイトメアの方が早く起きてたようだし。
 「君は寝ぼけてる時が一番素直だしな。たまには良い思いさせてもらってもいいじゃないか」
 「良い思いってなによ」
 最初の動揺が収まったらしいナイトメアが、まだ顔の火照りが引かない私を見てふっと唇の端に笑みを乗せた。
 こういう顔をした時のナイトメアは、まだ彼を夢の中だけの住人だと思っていた頃の、その名前の響き通りミステリアスな雰囲気になる。
 顔色は悪いけれど、どこか既に全てを見透かしているような少し皮肉気な眼差し。
 そして、滑り込んでくる声。
 普段のダメ男の面影を微塵も感じさせずに、文字通り『夢魔』に魅了させられてしまう。
 「私を呼んだろう?」
 「………呼んでないわよ。あなたが私を呼んだだけ」
 否定する口調が弱いのはわかっている。
 記憶にはないが呼んだかもしれない。いや、むしろ呼んだんだろうなという感覚はあるのだ。
 今、私の記憶の中には悪夢の欠片も感じられない。
 それは、また彼が悪夢を拭ってくれたからかもしれないのだから。
 そんな私の内心を見透かして、また少し低い忍び笑いが耳をくすぐっていく。
 「うなされていたからね。起こすか夢の中に入ろうか迷っていたんだが、声をかけたら急に抱きついてきたんだ。そのまま安心して眠ってしまわれたら、起こすのは忍びないだろう?」
 「記憶にないわよ。寝ぼけてたからだわ」
 「ふふ。君の記憶になくてもいいさ。私が覚えているからね」
 「………引き離してベッドに転がしてくれればよかったのよ」
 「そんなもったいない事出来やしないさ。君がたとえ寝ぼけていたとはいえ、私自身に縋って安心してくれたんだぞ?夢ではなく、私にな」
 心底嬉しそうに言われてしまうと、もう真っ赤になったまま何も言えなくなるしかない。
 だって、目覚める前。私はとても幸せだった。
 身体を包み込む得もしれぬ暖かさの心地好さに、このままずっと微睡んでいたいと思ってしまったくらいに気持ちよくて。
 無防備に、心の底から安心していたのだ。知らなかったとはいえ、ナイトメアの腕の中で。
 私がどんな悪夢にうなされていたのか、それを彼がいつものように拭ってくれたのか、それはわからない。今は、それは重要な事じゃない。
 (………悪夢を司る者なのに……)
 名前を裏切って、夢でも現実でも私を守ってくれる。
 ただ、側にいてくれるだけで。ほんの少し触れるだけで。
 凍える悪夢を幸せな夢に塗り替えてしまう。
 (…………暖かい)
 彼が大絶賛する極上の肌触りのいい毛布よりも、もっと。
 背けていた顔をそっと戻してみると、相変わらずそこにあった瞳とかち合った。
 (〜〜〜〜〜そんな目で見てないでよ)
 常に片目を眼帯で隠してあるから見つめてくるのは片目だけなのに、その眼差しは……
 「そんな目とは?」
 片目だけでこの威力。
 もし両目でこんな風に見つめられたりしたら、どんなに情けないダメ男の部分を嫌と言う程知っていたとしても、もっと早く、なす術もなく、文字通り夢魔の魔力に陥ってしまっていたかもしれない。
 今でもかなり強力なのに。
 (〜〜〜あんたは、色々ズルすぎなのよっ)
 「ふふ。そこまで言われてしまうと、ルールを破ってみたくなるな」
 「やめてちょうだい」
 楽しげにからかう響きを乗せた声を囁きながらも、その眼差しと同じように優しく柔らかく私の髪を撫でてくれる手も、どうしようもなく心地良い。
 (………いつからこんなに……)
 こんなにも自然に他人に寄り添えるようになっていたんだろう。
 いつだって冷めていて、どこか他人と距離を置いていた。初めての恋が苦く終わってしまった後からは特に。
 恋愛だって、もう二度としたくないって思っていたのに。
 この夢魔は、悪夢を拭う度に私の頑なな心まで実にさりげなく柔らかく解していったようだ。
 こんなに変化してしまった自分を、時にもどかしく許せなく思う事もある。同時に、どこまでも意地を張って素直になりきれない自分の性格に落ち込む事も。
 いつだって矛盾していて、はっきりした答えなんてどこにもない。いつまでもあやふやで、でもこの世界では夢は夢のまま消えたりしない。
 悪夢を名に持つナイトメアは、夢でも現実でも私の側で守ってくれるから。
 ーーーあれ…?
 (………なのにどうして、いつまでも私は悪夢を見てしまうの…?)
 不意に、忘れてしまっているはずの悪夢の残滓が内側からぞわりと這い登ってきた感覚に襲われた。暖かな空気が一気に凍り付くような寒さに変わったような。
 (……悪夢を生み出しているのは……)
 「アリス」
 思わずぶるりと身体を震わせた私を、ふわりと暖かな腕が抱きしめた。
 墜ちていって飲み込まれそうな私を掬い上げてくれる、忘れている夢の中での馴染みの感覚に反射的に縋り付く。
 「ーーーー夢でも現実でも私は君の側にいる。君を守る為にね。だから怖がらなくて良い…夢は君を傷つけたりしないよ」
 手に触れる事の出来る夢はどこまでも柔らかく暖かく私を包み込む。
 あまりにも心地好くて…どこからが夢なのかわからなくなりそう。
 最初から、全部自分に優しい夢を見ているような気さえしてくる。
 「…ナイトメア」
 『悪夢』を名に持つ者。
 夢でも、現実でも、この全てが私が生み出した世界だったとしても。
 彼がいてくれるなら、大丈夫。
 最悪の悪夢は訪れることはないはずだから。
 いつしか馴染んでしまった微かな煙草の香り。ナイトメアの香りを大きく吸い込んでゆっくりと吐き出す。
 「……もう少しだけ眠るといい。私が見張っているから」
 落ち着いたのが伝わったのか、柔らかく背中を抱いていた手がとんとんと優しくあやして再び横たわらせようと促してくる。その手を咄嗟に掴んだ。
 「アリス?」
 (………………ナイトメアは…悪夢を見ないの?)
 伝わった思考に彼の目が小さく見開かれる。でもすぐに微笑して、返事の代わりに彼も再び寝台に滑り込み、またふんわりと柔らかく包み込まれた。
 極上の毛布よりも心地良い体温と、くっついていてやっと微かに響く時計の鼓動。最初はあんなに異質だと思っていたこの世界の人の心臓の音は、今では聞こえるととても愛おしい。
 「私は夢魔なんだがね……でも、私だって悪夢なんて見たくない。だから一緒に眠らせてくれ、アリス」
 「夢魔なのに自分の悪夢は振り払えないの?」
 囁くうちにも、頭を撫でてくれる心地良い感触に睡魔がゆっくりと降りてくる。
 「私が振り払えない悪夢はたった1つだけ……だから私に悪夢なんて見させないでくれ…」
 心地良い囁きに導かれように眠りに落ちて行く。
 ナイトメアのどこか傷みにも似た微笑を目に留める事もないまま。

 「ーーー夢でも現実でも。君がいなくなる事こそが、何にも堪え難い最悪の悪夢なのだから………」

 

◇◇◇◇◇

 

 苦しい。
 息が出来ない。
 自らが創り出した幻想に絡み取られて、身動きすら出来ずに、ただもがく。
 
 ーーーー助けて

 どんなに力の限り叫んだとしても。
 声を紡ぎ出す事すら出来ず心の中で必死で願ったとしても。
 悪夢の源は自分の心。
 どんなに腕の立つ強い人でも、人の夢の中まではどうやっても入ってくる事は出来ない。
 
 ーーーー助けて

 どんなに手を伸ばしても。
 どんなに求めても。
 その手を掴んで助けてくれる者はいない。
 ただ1人を除いては。

 (ーーーーーおいで)

 ふわりと救い上げられる声。
 悪夢を名に持つ者の囁きを耳にするだけで、息を吹き返す。
 姿は見えなくても、悪夢の空間はまだ続いていても。
 (………ナイトメア)
 彼の存在を感じるだけで、どんなに酷い悪夢であっても私を傷つける事はない。

 (夢は君を傷つけたりしないよ)

 本当に恐ろしい悪夢。それは……

 (悪夢の元は…あなただわ)

 あなたを失ってしまったら……ーーーそれこそが永遠の悪夢となる。
 彼に向かう想いが深くなればなるほど、この悪夢から抜け出す事は出来ないだろう。
 なんて不条理な。
 
 (ーーーそれは私も同じ事だ。夢魔の私が怖れる悪夢は君だよ、アリス)

 そんな夢魔の囁きに闇がまた深くなる。
 けれど、同時に甘さと切なさが意識を支配する。
 ふんわりと抱き込まれた感覚に包まれ、僅かに微笑みながら私は素直に身を任した。
 
 じんわりと全てを溶かす毒の甘さを醸しながら手招きする夢に、どこまでも2人で墜ちていっても。
 夢でも現実でも…幻想でも。
 そこにあなたがいるのならーーーー

 


 

♪ナイトメアに心底ハマって最初に書いたものです。
………書き上がったのは携帯小説読む前だったんだけど…ね……(汗)

いいなぁ、アリス。ナイトメアと一緒に眠れて(爆)